◎新年を迎え、まずは「一年前の振り返り」から
明けましておめでとうございます。
年頭にあたっては、これまで通り、「まずはこのひと月(一月)、および次のひと月(二月)を無難にやり過ごすこと」という言葉を記す
そこを過ぎれば、少し休息が得られるが、もちろん、気を許してはいけない。
さて元旦の日に最初にやることは、「一年前の振り返り」からだ。
例年、秋から冬にかけてが、「あの世との交流が最も高まる時期」になる。
恐らく「空気が乾燥する」ことが関係しているのだろう。
画像は昨年の一月二十二日に撮影したものだ。
一枚目から三枚目までは、概ね20~30秒間隔、四枚目は50秒弱後に撮影している。
まずは一枚目。立ち位置Aから撮影している。これが基準だ。
二枚目は右側のDから。私自身の姿と、その右側に白い雲のようなものが見える。
遠景はかなりデフォルメされるので、「外の建物の屋根」かと思ったのだが、他のものがあまり変化していないのに、屋根だけ変わるのは不自然だ。
そこで、画像を再点検することにした。
要素が多岐に渡っており、それらを各画像に記してあるが、ここでは「雲」と「肩の上の手(または鼠)」の二つに焦点を合わせる。
1)白い雲
二枚目の右下を見ると、柱?の向こう側に白い雲が見える。
通常、この位置に見えるそれらしきものは、外の建物の屋根になる。ガラス表面の歪みによって、ガラス映像が歪められることによって起きるのだが、周囲の景色が変わっていないのに屋根だけが変化しているように見える。
最終画像に、「屋根」(四枚目)と「白い雲状のもの」(二枚目)を並べてみたが、「屋根」をどのように変えてもこの「雲」にはならない。
今のところ「うまく説明のつかない」現象だと言える。
室内なら尚更、何故それが生じるのかが一層分からない。
昔の心霊研究家は好んで「エクトプラズム」という言葉を使ったが、その手の根拠不明の概念を短直に当て嵌めることはすべきではない。
2)肩の上の「何か」
二枚目の私はカメラを両手で持っているが、右肩にピンク色の「何か」が載っている。
肌色なので、「手」のようでもあり、また「鼠」のようでもあるが、かたちが鮮明ではない。
ガラスの継ぎ目の左右に私の右肩が映っているが、拡大してみると「手(または鼠)」は左右で形状が違うようだ。
何とも説明に困る。
肩や体の一部に「(存在しない)別人の手が写る」という事態は、ごく普通に起きることで、そのこと自体が意味するものはあまり大きくない。
幽霊は専ら自己都合で存在し、他の幽霊や生きた人間を探りながら、自我の延命を図っている。多くの場合、その相手のことが見えていないことの方が多いようだ。
他者に関わるかどうかは、「念」の強さと質にかかっている。
以上のコメントを書く間に「ううう」「ううう」という呻き声がしていたので、何らかの示唆があったことは疑いない。
この記述から受ける印象よりも、はるかに大きな声で、もし私の傍にいれば、その声が聞こえると思う。
当たり前の話だが、画像に見える「かたち」やその「印象」で判断しているわけでは無い。「あの世」がもたらす影響の最も大きなものは「視線」と「声」だ。
3)人影
「人影」のようなものは素材があり過ぎて、収拾がつかない状況だ。
ただ、「如何にもそれっぽい」ものよりも、「それとなく身を隠している」ものの方が本物であることが多い。
四枚目の中央の人影については、つい先ほど気が付いた。
これまでは、左側にいる「実在の参拝客の姿がガラスに映っている」と見なして来たのだが、同時に「髪の毛が違う」ことも気になっていた。
詳細に見ると、別人であり、立ち位置とサイズ(身長)が合わないようだ。
右側には、門の真下でこれから階段を降りようとしている参拝客が見えるが、中央の老人はそれより遠くにいることは疑いない。
だが、そうなると、右側の人物より先の位置は、階段の上、すなわち空中になってしまう。
拡大すると、顔がかなり崩れており、白煙に取り巻かれている。
左の腕には、複数の小さな手が掴まっている。
私的には、この老人は「この世の者ではない」と思う。
ただ、証拠としては足りない。
それも、こちらが今までまったく気付かなかったほど巧妙に出ているので、致し方ない話だ。
4)備考
これらの画像を撮影したのは、午後2時から3時の間だが、午前午後ともこの時間帯に最も「煙玉」「霧または白煙」「人影」がよく写る。
昼の間なら日光が60度から70度の角度で差している時が多く、光の状況によってはフラッシュを加えた方がよりよく写る。これはカメラの感度の問題だろう。
これまで書き洩らしていたが、この神社に限ったことではないのだが、寺社・神社とも「東を向いている」ことが撮影環境の最適条件に加えられると思う。