日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎柔軟性のある人

f:id:seiichiconan:20210702091141j:plain
f:id:seiichiconan:20210702092744j:plain
「お迎え」の特徴(イメージ画像):景色(光)が曲がる

柔軟性のある人

 この世には死期が固まっている人と、割と柔軟性のある人がいるようだ。

 これは病状とは関係ない。

 

 私がたまたま、ゆはずの泉で水を汲み、これを沸かしてコーヒーを飲んだら、その日の夜に激しい下痢をした。

 この辺の経緯はこれまで幾度も書いたから、内容は省略。

 近くを通り掛かったら、少女の声で「寄って行くとよい。飲めば治る」と言われたので、その通りにしたらそうなった。

 十分に煮沸して飲んだのに、下痢をしたわけだ。

 だが、ほどなく持病の幾つかが自然治癒してしまった。

 

 その経験があったので、母と伯母を御堂観音に連れて行き、お参りさせた。

 泉で水を汲み、家に持ち帰って、やはり煮沸をしてお茶を飲んで貰った。

 だが、母や伯母には何一つ変化が無かった。

 

 もう一人、別の叔母がいて、この人にもゆはずの水を届けたのだが、こっちの叔母はお茶を飲んだら、私と同じように下痢をしたらしい。

 母とこの叔母はがん患者で、両方ともリンパ転移していた。

 半年後、母は亡くなったが、叔母は病気の進行が止まり、今も普通に暮らしている。

 母は抗がん剤が効かなかったが、叔母には効いたらしい。

 

 ここで冒頭に返るが、死期を先延ばしに出来る人と、そうではない人のふた通りがいるのではないかと思う。 

 母は五十年前から幾度も「危ない」時期があり、それを乗り越えて来たのだが、亡くなる直前の数年間は枕元にあの世の者に立たれていたようだ。

 亡くなる一年前から、極力、傍にいる機会を増やしたのだが、母の「お迎え」は二度、母ではなく父の前に現れた。

 その話を知っていれば、何かしら手を打てたと思うが、私がそれを聞いたのはもはや亡くなる直前だった。

 母が亡くなる三か月くらい前に、私は小皿にセージを少し入れ、母の部屋の隅に置いた。すると、夜中になり、母が「臭いが耐えられない」と言って、それを部屋の外に出した。

 それを見た瞬間、「母はもうこの世よりあちら側の方が近くなっている」と感じた。

 ちなみに、セージは悪縁除け。

 

 私と叔母の共通点は、自分なりの信仰心を持っていることだと思う。「常に願っている」「頼っている」のではなく「それが指針として身についている」ということ。

 要するに人生や生活の一部になっている。

 神仏を拝み、祈願することで、「何か」の力が助けてくれるわけではもちろん、ない。

 (もしそういう力があるなら、そもそも人間社会はもう少しましなものになっている。)

 ひとの心の中に何かしらの心因スイッチがあり、それが自己免疫力を刺激するのではないかと思う。

 

 父の前に現れた「若い男」は、父に向って、「※※さん(母)を連れて行きます」と言ったそうだ。

 父には認知症が出ていたから、周囲の誰もが父を「ボケて変になった」と思ったらしい。誰一人として取り合わなかった。

 だが、知性・理性の統率力が落ちている時には、あの世が近くなる。こういうのを聞き逃したらダメだ。

 もっと早くにそれを聞いていれば、手を打つ時間があった。きっと母の死期を一年二年と遅らせることが出来たのではないかと思う。

 私自身は、まともに「お迎え」に対面してから、既に五年生き延びている。

 

 ちなみに、「お迎え」は、ひと度会えば一目瞭然だ。

 あの世の者は「光(の進行方向)を曲げる」、または「光を干渉する」存在だから、周囲の景色が曲がって見える

 画像は「こんな感じ」という一例。(この画像自体はたまたま回転して写ったもの。これに「似ている」ということ。)

 私は病院で夕食の後、ベッドに座っていたのだが、入り口から二人組が入って来た。その時にすぐ「これはこの世の者ではない」と察知したのは、周囲の景色が曲がっていたからだった。

 あり得ぬことが起きているので、恐ろしいと感じたわけだ。