日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎この数日に起きた出来事の顛末

◎この数日に起きた出来事の顛末

御堂観音 (八月三日SNSに記載)

 叔母に蕎麦を送って貰ったので、御礼の電話をした。叔母はある意味、「あの世友だち」で、忌憚なくあの世の話が出来る数少ない相手だ。

 ま、叔母自身がよく夢に色んなものを観る。

 義理の甥と叔母で、一時間くらいあれこれ話をした。

 

 叔母は五年前に発症・治療した癌が再発して治療中だ。

 「そろそろ叔母にもまた自然水療法が必要だろうな」と思っていたが、当方の方から「こうしろ」と言い出すことは出来ない。

 そこで、前に御堂観音で経験した話を、もう一度最初からした。

 

 国道四号を二戸から盛岡方面に南下中に、急に腹痛が酷くなった。筋膜種の持病があり、胆嚢と脾臓に炎症があった。

 「少し休憩しよう」と思ったら、ちょうど「御堂観音」の看板が見えた。それと同時に、女の声で「ここで水を飲んで行けば治るよ」と言われた。

 そこで道を折れ、観音さまに参拝することにした。

 ここには北上川の源泉地で「ゆはずの泉」が湧いている。

 ここで泉の水を飲むと、痛みが無くなった。

 そこで一旦、沼宮内まで行き、大型ペットボトルを買って、もう一度観音さまに行き、水を汲んだ。

 実家で、泉の水を煮沸してコーヒーを飲んだが、その夜酷い下痢をした。

 で、ひと月かそこらの内に筋膜種が治癒した。

 次に郷里を訪れた時に、再びゆはずの泉で水を汲み、半分を叔母に渡した。

 叔母も試してみる性質で、その夜にお茶を淹れて飲んだら、やはり下痢をしたそうだ。

 「たぶん、体が反応しているという意味で良い兆候ですよ」。

 これが四五年前の出来事だ。

 

 ただ、効果があったのは、当方と叔母だけで、母や伯母は変化が無かった。どうやら人を選ぶようだ。

 「下痢をする」のは、おそらく体内の毒素を排出する意味がある。これを飲んで、下痢をするかどうかが分かれ道だろう。

 ここまでを伝えると、叔母は「折を見て水を汲みに行く」と言っていた。本人の自発的意志が必要だから、良いタイミングだった。

 当方ももう一度行き、体内に溜まった薬毒を排出したい。

 こっちでも自然水を汲みに行っているが、どうやら地中深くのところからの水でないと、効能が少ないようだ。

 あるいは霊験のある地のものだ。

 

 加えて、日頃から「(あの世を)信じている」かどうかで分かれるような気がする。治したくて、あるいは治そうという目的で参拝しても、たぶん、ご利益はないと思う。それでは、ただの欲望だ。

 死生の理を日頃より受け入れているかどうかでも違いが出そうだ。

 また、効能(霊験)がある人ても、万能の薬ではないようで、「あなたの心臓と腎臓はここでは治せない」と女性の声で言われた。

 

◎神社での確認(八月四日SNSに記載)

 四日の今日、「たぶん、今ならカメラに写る」気がしたので、最寄りの八幡さまに行き、ガラス自撮りをした。

 想像した通り、当方の背後に白い着物を着た女性が映っていた。

 この記事を書いた直後だから、御堂観音のあの声の持ち主だと思う。

 当方が「御堂さま」と呼んでいる女性で、これまでも幾度か画像に残っている。

 あの世には、直接手を出して助けてくれる存在、要は世間で「守護霊」と呼ぶ者は存在しない。今生の行く末は本人が決め、本人に任されている。

 だが、その者を案じ見守っている者がいることには疑いない。

 今は毎日のように母の夢を観ているから、そういう心の波をこの御堂さまが送っていたと思う。

 だが、その画像がPCでは認識出来ない。

 カメラに戻すと、きちんと画像が存在するのだが、PCに移すことが出来ない。

 「世間には晒してくれるな」という意味なのか。

 ちなみに、いつも「カウンターの柱の陰に着物の女が立っている」と記すのだが、これがその女性だ。

 そして、今回はっきり分かったが、これまでの「白い着物の女」とぴったり一致する。鎖で繋がれた相手で、真の意味のソウルメイトということだ。

 

追記)画像が認識出来るようになった時には、姿が消えているのかもしれん。

メッセージを伝える相手は、専ら当方一人で、他の人は関係ないというい意思表示だと思う。

 ま、出して見せても目を瞑っている者には見えぬから、あまり意味がない。

 当方がメッセージを伝える相手は、叔母のような、「あくまで1、2パーセントの人たち」だと思う。

 1、2パーセントしかいないのではなく、少なくとも「それくらいいる」ということで福音だ。それくらいは当方と当方のパートナーの手で助けられる。

 

◎画像の検証(八月五日SNSに記載)

 デジカメ画像を別のデジカメで二重撮りして、やっとこれだけだった。どうやら御堂さまとは別のようだ。すぐ後ろの老婆は見える人がいると思うが、その後ろにもぞろっと立っている。

 なるほど、これでは街灯ひとつの下で三つも四つも影が出来る。

 

画像が開けぬ件の検証(八月五日SNSに記載)

 四日撮影の画像について、メモリCを認識してくれぬので、デジカメに戻し、それを別のデジカメで撮影した。

 それでも画像が開けず、開けられるのは最も不鮮明なこの画像だけだった。

 たぶん、数日後には鮮明に写った画像は壊れてしまうだろうと思う。これはいつものこと。

 「たまたま写った」場合にはこんなことは起きぬのだが、メッセージ性が高い場合にはよく起きる。逆に言えば、当方だけに「何かしら伝えたいことがある」という意味だ。

 

 これでも、「何か」がいるのは分かるし、当方にはそれが「御堂さまではなかった」ことも分かる。御堂さまであれば、巫女着のような白衣を着ているが、こいつは羽織?の前を閉めていない。そもそも老婆だ。

 その後ろについては、これを認識出来る人がいないと思う。

 当方は、気配を感じ取れるが、画像ではそれが分からない。

 

 独りで歩いているのに、何となく複数の足音が聞こえる。

 照明の数より影が多い。

 ちなみに、一人は年寄りだと思っていたが、実際、年寄りだった。これは周囲で死んでいく年寄りをいつも見ているから、それが影響していると思う。

 

 ちなみに、外出から戻る時には、いつも玄関前でこう伝える。

 「この先は俺の領域だ。ついて来てもよいのはここまでだぞ。中には入るな」

 で、お清めの塩を振る。

 常時傍に居て良いのは、御堂さまや母だけだ。あとは、生きている者に迷惑をかけぬ自制心を持つ者に限る。