







◎昨年の振り返り(令和元年五月十八日)
昨年一年を通じ、「自分自身に何が起きていたのか」を、昨年の同時期について同時進行的に検証している。
御堂観音を十年ぶりくらいで訪問したのは、ニ〇一七(平成二十九)年のことだから、まだ三年前の話だ。
すぐ近くの国道四号を南下していると、持病の脾臓・胆嚢の腫瘍が痛み出した。往生していると、声が響いた。
女児の声で、「ここに参拝していくと治るよ」と言われたのだ。
とりあえず鎮痛剤が必要だから、寄ることにした。
あとは幾度も書いたので省略するが、最初に光玉が出て、画像に女性の顔が写った。
ゆはずの水を飲んでいるうちに痛みが治まったが、それ以降、時々参拝して、水を汲んで帰るようになった。
その水でコーヒーを淹れて飲んでいたら、半年後には、何時の間にか腫瘍が治っていた。
以上は三年前の話だ。
昨年はそのお礼に参拝したのだが、いつも通り、日光が水蒸気に反射したものとは違う煙が画像に残った。
ちなみに、今は経験を踏んだので、最初の画像から白蛇に見えるし、拡大すると、それが修験者だということもすぐに分かるようになっている。
ずっと、この女性が「御堂さま」ではないかと思っていたが、改めて眺めると違うようだ。
「御堂さま」の方はすっきりした顔立ちでやはり美人なのだが、もの凄く迫力があり怖い。
敵意や悪意があるわけではなく、あの世の存在について、人はその存在そのものを「怖いもの」と認識するようになっているようだ。
もちろん、こういう「誰それが」という部分は、私の想像や妄想だ。「あの世(幽界)」では、思い描いたイメージが、すなわち「現実と同一」だから、別の眼で見ると違うものに見える。
この辺はひと言で説明するのが難しい。
この世とあの世の関りを一次元軸上で例えると、仮に「現界(現世または人間界)」をプラスの領域とすると、「幽界」はマイナスの領域になる。「霊界」はゼロで、「存在はしているが他に影響を及ぼさない」経由地になる。
カメラは人間の視覚が捕捉可能な波長より広い波長範囲で写せるわけだが、人間と幽霊が重なると、時々、双方が消失してしまう。これは、双方がプラス・マイナスの関係だからだ。
物理的な「効果」が存在しているということの意味は、「幽界そのものが物理的に存在している」ということだ。
ただ単に、人の眼に見えず、耳に聞こえないだけ。
追記)改めて画像を開くと、1年前のも3年前のも、眼力が無くなっている。
もはや平坦な景色で、完全に「気のせい」の領域だ。
やはり、時間の経過と共に「消滅していく」もののようだ。
ま、撮影当時には「ううう」みたいな声まで聞こえるから、状況が全然違う。