◎今日から解禁(491)
日曜には家人と一緒に「いつもの神社」に参拝した。名称を秘匿してもどこか分かると思うが、ここは優れた霊場で、様々な示唆を与えてくれる。私本人はその性質を理解しているから問題は無いが、SNSやブログを読む人は、もちろん、違った解釈をする。そこで、情報が曲がって伝わらないように「いつもの神社」とのみ記すことにしている。
さて、この日から「自撮り」や「自身が被写体に入る」ことを解禁することにした。
もちろん、昨今の新型肺炎の影響だ。私は重い持病を抱えているから、もし感染すれば必ず重篤化するし、たぶん、4、5日で死に至ると思う。
いつそうなるかは分からないから、「とりあえず前に進む」ことにしたのだ。
これまで、直接、自身が被写体になるのを避けて来たのは、それを行うと「異変が起きるのが数倍に増える」からだ。
「あの世」由来の現象は、どれも気持ちの良いものではないから、鮮明な人影が自分に取り憑いている絵図を見させられるのは、さすがに気色悪い。
ガラス映像でも、時々そういう人影が映るが、やはり明るい気持ちにはなれなくなる。
そういうのにも既に慣れたから、恐怖心は感じないし、動じなくなったことは確かだが、やはり楽しくはない。
しかし、「知るべきことを知る」ことを優先すべきだと思う。
このため、今後は被写体にもなるし、単独行なら自撮りをするか、タイマーを使って自身と背後の様子を写すことにした。
この日は参拝客が多く、自分の周囲を写すチャンスは一度きりだったが、割とそれと分かる人影が出ていた。複数が重なっているので、判別が難しいのだが、よく考えると分かる。
①のショルダーバッグの女性は実在の人で、背中を向けて立ち去るところだ。
②の女性は顔と左腕が見えている。当初、この腕が何かが分からなかったのだが、ノースリーブの左腕だった。まだ季節に合わないし、①の女性は長袖だから、各々別の人だと分かる。
③は着物の裾と肩くらいまでのシルエットしかないだが、ノースリーブの女性の背後にぴったりついている。
見極めが難しいので、ひとつ一つを分けるのに手間がかかった。
しかし、「ノースリーブの女性」や「白い着物姿(または巫女姿)の女性」は、時々、画像に現れるので、それと気づいた。
ただし、「ノースリーブの女性」は、時々、私を掴むあの女の表情とは違うから、これはまた別のものかもしれぬ。前に私を掴んだ女は、腕も顔も細かった。
詳細に見ると、今回の女性の首の周りには、綱のような筋が見える。首が捻じ曲がっているところを見ると、あまり良からぬ状況を示しているようだが、私とはとりあえず距離がある。
心境に変化も無いので、影響を受けていないようだ。
ちなみに、影響が生じた時には、概ね「死にたくなる」と思う。
背後に立つ着物姿の女性は、そのノースリーブの女性を制止しているようにも見える。
となると、「御堂さま」なのかと思ったりもするが、正確なことは分からない。
「御堂さま」は私に近しい存在だが、人事には関わらない。だが、これは人事ではなく、「あの世」で起きている事象だから、「ノースリーブの女性が私に関わろうとしているのを制止している」のかもしれん。
「御堂さま」は、私の仲間のような存在で、それとなく助言や示唆を与える。
ただし、「守護霊」みたいなものではない。あの世(幽界)に社会は無く、人間関係のような霊関係もない。このため、「ひとを守ってくれる存在」は、ひとの願望に過ぎず、実際には、幽霊は総て「自己都合で」存在している。
「守護霊」など、そもそもいない。存在しないのだ。
あくまでひとの願望が作り出したもので、実態はない。願望とそれについての知識だけ。
それとニュアンスはかなり違うが、「仲間」のようなものはいる。手を出して人(生者)を助けてくれたりはしないが、傍で見守りつつ、「気を付けろよ」というサインを送って来る。
「御堂さま」は、ここぞという時には、私の傍に寄り添うのだが、それは同時に「危機が間近にある」ことをも意味している。
今年は昨年より、体調が良いのだが、けして気を許してはならないようだ。
ま、実際、新型肺炎に感染すれば、いくらも持たず、生きる希望が潰(つい)える。
五枚目の画像は、割と判別しやすいケースだ。
幽界は人間界と重なって存在しており、可視領域の外にあるから、目視は難しいのだが、カメラの感度によっては、あちら側の状況を覗き込むことが出来る。
「眼に見えない」・「見え難い」のは、「存在しない」のではなく、単に「見え難い」ということ。
存在しているのだから、それを確かめる術はある。