日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎一年前の振り返り 「白いノースリーブの女」

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令和二年四月二十二日撮影

◎一年前の振り返り 「白いノースリーブの女」

 「あの世」系の画像は、時間の経過と共に変化する。

 いわゆる「心霊現象」は、不可視域の光(概ね赤外線)を曲げ、画像に歪みを生じさせる。カメラは人間の眼より捕捉範囲が広いため、「画像にだけ写る」ことがあるのだが、人影の周囲の景色に歪みを生じさせる。

 また、撮影直後には、さざめくように波立つ気配が感じられることが多いのだが、時間が経つと、次第にそれは無くなって行く。

 逆に、臨場感が消え、冷静に見られるようになるため、錯覚や思い込みを除外することが出来る。

 このため、半年後、一年後に、過去の画像を再確認すると、撮影時点では分からなかったことが見えて来る。

 

 画像は昨年の四月二十二日のものだ。

 例年、四月五月は異変が少なく、ほとんど何も起こらない。

 この月も、さしたるものはなく、引っ掛かったのはこの時の画像だけだ。

 この画像では、右側に何となく人影が立っているように見える。

 これは画像だけでなく、目視の段階でも同じだったと思う。その理由は後述する。

 室内の物や、外の景色が同時に写り込んでいるため、判別が容易ではないが、それらとは別に、半透明のシルエットが見える。(ウェブ画像では難しいかもしれぬ。)

 割合、腕とスカートが見やすいのだが、腕は室内外に見間違う物が存在しない。

 スカートは階段の手すりと重なっているのだが、それとは別の白い布が朧げに見えている。

 

 即座に「あ、これは」と確信する理由は、「時々、見ていたから」だ。

 「白いノースリーブの女」は、ひと頃、盛んに画像に残った「人影」で、いつも同じ服装をしていた。

 最初は私の「背後から抱き付いている」という構図が多かったのだが、この頃には徐々に離れるようになったようだ。

 昨年の後半くらいからは、殆ど姿を見せなくなった。

 

 「時々、見ている」ことで、それが先入観になっているのかもしれぬと思い、もう一度見直した。しかし、スカートや体の線は「見間違い」とも言えるものの、腕は「そう見えるような別の物」が存在しない。

 画面では判別が困難だろうが、手指の先には指も付いている。

 過去に見た人影と同一なのであれば、スレンダーで、顔だちもきれいな女性なのだが、あの世の者(幽霊)は、どうしても薄気味悪く感じてしまう。

 既に感情だけの存在で、それも多くは負の感情だから、温かみを持ちようがない。

 どんなに美人でも幽霊となると、親しげに触られるのは、あまり良い心持ちがしない。でもま、凶悪な怪物・妖怪やデロデロの自殺者よりはまし。

 

 ま、いずれにせよ、何かを語るには不鮮明だ。

 加えて、こういうのは先方が自己主張をする対象(すなわち私)が決まっているので、第三者はまったく関りが無い。

 よって他の人は「そんなのは気のせいだよ」とスルーするのが正しい。

 幽霊は自身と接点を持たぬ相手には関わろうとしないから、「見ない」「見えない」ことで、面倒ごとを避けられる。

 「肯定」「否定」に関わらず、興味本位に「眼」を覗き込まぬのが無難だ。

 画像であっても、先方が見ている(あるいは「見られる」)場合があると思う。

 波と同じで、同調すると共鳴もする。

 

 これまで長く観察して来たが、もはや「死後の存在」を疑うことは無くなった。問題は生きた人間の「知覚・認識の規格に合うか合わぬか」という話だけだ。

 「あの世」を正しく理解すれば、今生の改善に役立てられる。

 

 追記)画像を追加する。他にも要素があるのだが、「たまたま」「よく分からない」のいずれか。

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