日刊早坂ノボル新聞

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◎ガラス窓の中の「あの世」 (「霊感のある人とそうでない人の違い」の続き)

ガラス窓の中の「あの世」 (「霊感のある人とそうでない人の違い」の続き)

 さて、前回の「霊感のある人とそうでない人の違い」の続きだが、ここでは、ガラス窓の中に見える「あの世」の姿について、整理して行こうと思う。

 一つひとつの画像自体はこれまで幾度か公開して来たものばかりだ。

 ただ、単発で眺めるより、系統的に整理した方が事態の把握に役立つ。

 正確な表現をすると、「ガラス窓に映る景色を撮影した時、画像だけに生じる異変」に関するものになる。そしてその中には有用なものもある。

 

事例1)位置とサイズが変わる

 二年前の十一月のこの画像は、もはや幾度となく公開した。

 この日は、ほとんどの画像に大なり小なりの異変が残った。

 繰り返しになるので詳述を避けるが、参拝客の行列のかなり後ろの方から撮影したのに、ガラス窓に映る私の姿は、行列のすぐ隣に立っている。背丈も位置関係とは合わない。

 

事例2)ガラス面だけに人影が映る

 当初は、男性の近くに少女の姿が見えていたので、その付近を拡大すると、男性の頭の後ろに現実にはいない女が映っていた。

 女は半ば男性に同化し、自分の手を男性の手に重ねている。

 世間的には「憑依している」ということだが、恐怖小説やホラー映画と違うのは、だからと言って、直ちに祟りや凶事が降ってきたりはしないことだ。あの世の者は、直接的には心に働き掛ける。

 そのことでこの男性は喜怒哀楽のいずれかを一層強く感じることになる。

 そこでは、人(ここでは男性)が元々、持っている感情と、取り憑いた女が与える感情が同調し共鳴するということが起きる。いわば、感情、心の「同化」が起きている。

 幽霊が人に取り憑いするのは、災いを為すためではなく、自己と相手を同化し、ひとつに合体することを目的としている。

 

事例3)絶対にその場にはいない筈の人影が写る

 「幽霊は人間の可視域の境界線の近くにいる」のを確かめるには、それが見られるような工夫をすればよい。そのひとつの手段が赤外線撮影だ。専用のカメラを使用すると、人間の眼には見えぬ波長の光(この場合は赤色側)を通じて景色を眺めることが出来る。

 そして、時々、この撮影によって、「そこには居ない筈の人影」を捉えることが出来る。

 ただ、これにもTPOがあるようで、いつも可能になるわけではない。当たり前だが、相手が目の前に出てくれぬと、そもそも画像には写らない。

 画像では、遠くの方に、鳥打帽を被るお年寄りと、ベレー帽のご婦人がいるように見えるのだが、この場所は下が灌木だから、人が立つ足場がない。

 次の画像は、普段と同じように、神殿のガラス窓を撮影したものだが、参拝客の男性二人とは別に、着物姿の女性が見える。割と鮮明であり、まるでその場にいた人のようだが、中央の高齢男性の連れは左側のフレームの外にいて洋装である。この画像だけでは状況が見えぬだろうが、着物の女性がいるのは、内門の外側で、ここは階段の上、すなわち空中になる。人間なら空中には立つことが出来ない。

 なお、死んだ後も生前の振る舞いを繰り返す者がいるようで、神殿前で手を合わせている姿が、時々、画像に残る。

 

事例4)「自分に似た姿をした者」が画像の中にいる事例

 この画像は極めて不鮮明で、暫くの間、私はここに映っている者に気付かなかった。

 ただ、私自身に関連するものだから、それと気付く要素が増える。これが他人のことなら、注意深く観察したりはしない。

 例によって、ガラス窓の私自身を撮影したが、右後ろの背景の中にうっすらと人影が見える。

 詳細に観察すると、私と同じような服を着て、私と同じようにカメラを構え、撮影するところだ。そして、この男はサングラスをしている。この時は既に夕方なので、室内の方が明るいからガラス面の映像が上手く写らない状況だ。サングラスをする者は少なく、私のように「ことさらライトの光に弱い」者だけだ。

 何故に私の姿を模倣しているのか。それは、手っ取り早く私と同化同調し、私の死後に自分の中に取り込むためだと思う。

 多くの人は「ドッペルゲンガー」について聞いたことがあると思うが、伝説の中のそれは「死の予兆(前触れ)」を指す者だ。自分にそっくりな者が現れると、その人は程なく死を迎える。そんな言い伝えだ。

 その話と実際のこれは少し違い、これは「人の死を悟り、近づいて来る幽霊」だと思う。よって、これも「お迎え(死神)」の一種だ。

 かなり厄介なのは、生きた人に取り憑くごく普通の幽霊とは違い、お祓いなどの効き目がなく、除霊浄霊が困難なことだ。祈祷師に依頼しても解決しない。

 これを遠ざけるには、自ら「模倣霊」の所在に気付き、「私はお前がそこにいることを知っている。だから私の傍には近づくな」とけん制する他に方法はない。

 間に厳然と境界を引き、警告することで、野球で投手がランナーの盗塁を阻止するのと同じような効果が生まれる。

 目視で見るようになった人はかなり難しいと思うが、画像の中にいる段階なら、まだ止められる。

 現にこの私はまだ生きている。

 「あの世」が関わることについて、私が他者に助言したり警告することはなかったのだが、最初の助言は「周囲に気を配れ。とりわけ、自分とそっくりな者を見付けたら、充分に警戒しろ」ということになる。

 私の場合は、既に本来の寿命自体が終わっているためか、頻繁にこれを見る。

 

事例5)「画像に歪みをもたらす煙」

 画像は神殿前のガラス窓だが、背景の遠近法が崩れており、はるか遠くの外鳥居付近の景色が映っている。灯篭や建物などは、駐車場から先、すなわち五十㍍以上離れた場所のものになる。

 画面を横に光の線が走っているが、この場合は電線だと思う。これは外鳥居と駐車場の間に仮設テントを張り、そこを照らすための照明用だ。何もない時に映る「光の筋」にそっくりだが、よく見ればそれと分かる。

 ガラス面が歪んでいるわけではないのに、景色だけがぐにゃぐにゃにデフォルメされているのは、間に「何か」があるからだ。この場合は「煙(または霧)」で、これは白く見えることもあれば、このケースのように透明で目視出来ぬこともある。

 やや同語反復的だが、通常の景色はガラスに反射させたからと言って、ここまでデフォルメされることはない。

 そして、この「煙(霧)」が「幽界」の本体・本質だ。「あの世(ここでは幽界)」はこの世に重なって存在しているが、目に見えぬことが殆どだ。条件が整った時だけに、その中から幽霊が実体化し、近く出来るようになる。

 幽界の本質は「意識(こころ)」だから、かたちはない。自我・自意識を強く持った時に、人の姿になる。

 画像の中には、断片的な人影があるのだが、それ以前に何とも言えず薄気味悪い。

 これは、人の「こころ」にもたらされる影響だ。

 「何だかここは気持ちが悪い」と感じた場合は、概ねすぐ隣に幽霊がいる。どの程度検知するかはその人のアンテナと経験値の問題だ。

 

事例6)「画像の一部だけに著しい歪み」がある事例

 この画像は、ごく普通の景色の中に部分的に「著しい歪み」があり、その影の中に蠢くものが見えるケースだ。右側の林だけが著しく歪んでいるのだが、その奥に何か蠢くものがある。

 これを見た人の中には、人影の見える人が幾人かいると思うが、それは正解だ。もはや死者の行列で、幽霊が隊列を為して行進しているように見える。数十体が連なるケースもざらにあるが、死んで行き馬を失ったままの幽霊がどれほどいるのかは想像もつかぬ。入り混じっているから、元は男だったのか女だったのかも判別出来ぬ有り様だ。

 私は子どもの頃から「数十万の城者の群れが後ろをついて来る」夢に悩まされているのだが、あながちただの夢とは限らぬようだ。今も時々夢に観るし、今では現実に見る。

 

事例7)「幽霊に抱き付かれる」事例

 既に何千枚かの画像を通じ、「あの世観察」を続けているわけだが、かなり慣れて来たので、遠景で撮影したこの画像でも異常があることを察知できる。

 私がこの時にしくじったのは、前に参拝客の行列がいたので、神殿前の中央に立ってしまったことだ。

 通常、この境内に入る時には、歩く経路を決めている。幽霊の「通り道」のようなコースがあり、これは神殿下までの通路では、通路左側の地上から二㍍くらいの高さで、階段を上がる時に中央に移る。この時には、人も歩く場所だから、うっかりと幽霊の進行を遮ってしまうことがある。

 よく言われていることだが、「神社では参道の中央は神さまの通る道」だと言われるから、参拝客はそのルートを避ける。

 私のような者が、ついうっかりでも禁忌を破ると、その報いは一般よりもかなり重い。

 昨年の十月に、ある神域にうっかりそれと気付かず入り込んだために、次から次へと悪縁(悪霊)がやって来て、これまで心身の不調に苦しめられた。このため、一年で十キロ以上痩せ、今も悪影響が残る。

 さて、この画像だが、私の顔はカメラのすぐ後ろにある筈だが、そこには無く、かなり横にずれている。モニターで見る人ならありそうな話だが、私は写真を撮影する時には、必ずファインダを覗くことにしている。

 よって、髪の毛の薄めのこの男の頭は私のものではない。私の顔はカメラの直後にあるが、三分の二は消失している。腕の位置もおかしいわけだが、カメラを持つ両手の他に背後から前に腕が回り、私の左手首を掴んでいる。別の男のものだ。 

 私は心停止の経験があり、半ば以上はあの世の者の同類だ。このため、画像に残る幽霊の視線は必ず私のことを見ている。今回のどの画像でもそうなっている。

 要は、私が道を塞いだので、腹を立てた男が羽交い絞めにしていた、と言うことだろうと思う。

 この男が現れたのは、この時だけで、他には無いから、一過的なものだったのだろう。

 あの世では、それと知らずに侵しても、言い訳が通用しない。この世では法律の存在を知らなければ、無罪になるか罪が軽くなったりするわけだが、あの世の障りに情状酌量はない。

 

 さて、この後も継続して、あの世との接点を整理して行くが、画像を見ているうちに、「あの世(幽界)」や「あの世の者(幽霊)」がどんな存在か推測がつくようになる。

 今回の二つ目の助言は、「お迎え」の対処法だ。

 詳述は追って行うが、普段は画像だけでしか見ることのない幽霊が目視で見えることがある。

 その中には、人を「あの世に誘う者」、すなわち、「お迎え」が混じっているかもしれぬ。

 見極め方は簡単だ。ひと目見た瞬間に、貴方は「これはこの世の者ではない」と悟る。

 さらに、普通の幽霊とも違う点がある。

 何故なら、その相手は、完全に実体化しており「ごく普通の人間の姿に見える」のにも関わらず、周囲の景色が数十センチくらいぐねぐねと歪んでいるからだ。

 繰り返し、「景色が歪む」事例を取り上げたのは、それをイメージしてもらうためだ。

 この者が目の前に現れたら、「まずは一定の距離を保つ」のを心掛ける必要がある。 

 まずは、とりあえずその場から逃げるという手もある。

 もし間近に対峙してしまったら、怖れず冷静に話をすることだ。

 「自分は貴方がどういう者かを知っている。自分の寿命もある程度心得ている。その上で頼むが、もう少し待っては貰えないでしょうか。その間に覚悟を決め、気持ちを整えます」

 丁寧に頼むと、猶予が与えられることもある。

 「怖れずに丁寧に頼む」のがポイントだ。

 

 私の場合は、「傍に来るな」と怒鳴り、迎えの者を遠ざけたのだが、以後は入れ替わり立ち代わり、酷いのが来る。

 道を歩く時には数メートル後ろを何かがついて来る気配があるし、台所に立つとカウンターの陰にいつも誰かが立っている。

 気の触れた者が語るような内容だが、これは現実の一端だ。多少なりとも、画像が証拠として残っている。常に「迅速に対応する」ことを心掛けているから、これまで生き残って来られたのだ。

 

注記)時間の制約があり長くPCの前に座れない。推敲も校正もしない(出来ない)ので、言葉足らずや不首尾はあると思う。