◎霊界通信 「赤外線で見る幽界」
「幽霊はひとの可視域の境界線にまたがって存在している」ことが分かったわけだが、それなら不可視域を可視化して眺めれば、よりよく見えるのではないか。
その考え方で、赤外線反応カメラを使い、景色を撮影してみた。
結論を先に言うと、「赤外線で見るとかなり景色が違って見え、幽霊は幾らか見え易くなる」ことが分かった。
人体の赤外線反応と、幽霊のそれはかなり違う。人体は常に発熱しているので明暗が鮮明だが、幽霊は幽霊なりに赤外線に反応する(弱い)。
よって、赤外線のみを抽出して反応を見ると、目視とは違ったあの世状況が観察出来る。
ただ、現状であまり多用はしていない。
可視域で見る景色と、赤外線で観察する景色とはかなり見え方が異なり、「あまり鮮明には写らぬ」ことと、「想像を超え気色悪い者が写る」ことによる。
幽霊はまだ人のかたちをしているが、赤外線で写る人影は人間の姿からかけ離れていることがある。これで気が萎える。
まずは具体例から。(令和六年二月十七日撮影)
説明用に、狭山八幡に参拝し、赤外線カメラで撮影した。
画像1)手水場(位置確認)
撮影定位置。背景は左手十五㍍後ろに灌木林。右手は駐車場で何もない空間。
振り向いて、ガラス窓に映すので、右手が林で、左手が駐車場になる。
画像2)社務所のガラス窓(遠景)
定位置に立ち、ガラス窓に映る自分自身を撮影する。
説明のつかぬものが画像に写るのは、「最初の一枚」のことが多い。身構えると、その心の動きを悟られるのか、姿を隠してしまうようだ。
画像3)窓拡大
事前に赤外線カメラを使用して景色を撮影し、対応関係を承知して置く必要がある。
明るい場所、暗い場所、物がどう写るかについての知識がいる。
私はこの段階で、数か所に異常があることが分かる。この場合の「異常がある」とは、自然な状態ではなく変化が加わっている、と言う意味だ。
画像4)手水場(左側)
こちらは駐車場の側で、周囲には何もない。クリアな状態で駐車場が写る筈だが、もやがかかり、手水場が歪んで見える。
二人分の人影が立っているように見える。(実際にはひとの断片的な部分が沢山。)
これは赤外線画像を見慣れるまったく認識出来ぬと思う。
草叢があるように見えるのだが、この周囲は駐車場で樹木は存在しない。
画像5)私の周辺(拡大)
赤外線画像にしては非常に鮮明な方だ。私の後ろに立ち、抱きすくめている者がいっる。次図以降で指摘するが、この画像が最もわかりよいと思う。
画像6)私の周辺(拡大2)
本来そこには無い筈の黒い影を抽出すると、4つ確認出来る。煙が出ており、この他にも断片的な人影が幾つか出ている。
画像7)私の周辺(拡大3)
あの世画像には「深さ」があり、層状に構成されている。そのどこに焦点を合わせるかで見え方が異なる。
ここで最も眼を引くのは、私を抱きすくめる「でっかい女」だ。この女は幾年も前から私の後ろに居るが、このせいで私自身の周りにはいつも黒い影が出来る。
何が目的なのかは想像がつかない。この女に関連するような吉凶いずれの出来事もまったく思い付かない。これとは別に「巫女着の女」もいるが、それとは別の者だと思う。
画像8)参考図 「でっかい女」
私の背後にいる「でっかい女」は、時々、撮影出来ており、同一人かどうかは分らぬが、これは一例。髪型が似ている。「巫女着の女」にも似ている。
画像9)参考図 「バケモノ(アモン)」
「背後で私を抱きすくめている」者という繋がりになる。
妖怪のような顔をしているが、元は女だったようだ。今回、「もしかすると、でっかい女と同じ者かもしれぬ」と思った。
あの世画像は時間の経過と共に変化し、位置を変えたり、朧げになったりする。
この画像は当初鮮明だったが、最近はかなり朧気になって来た。
名前(アモン)は夢で聞いたもの。
画像10)神殿
かなりクリアに写っている。こういう時には、幽霊はほとんど認識出来ないことが多い。幽霊の本体は煙または霧で(「幽界の霧」)、これは感情の塊だ。幽霊が画像に残る時には、必ずこの煙(霧)が出ている。
心霊画像・動画の検証の一歩目がこれで、幽霊の周囲には必ず煙・霧・もやが出る。
これが無いのは多く作り物だ。
画像11)窓拡大
神殿は高所にあり、窓ガラスには参拝客などが映らない。ここには地上四五㍍くらいにある木の枝が映る。
煙玉が二つで、右側は女だと思う。だが、不鮮明であやふや。「気のせい」かも。
こういうチェックは「リスクの可能性を測る」ことを目的とするので、実際はどういう性質のものかを追い詰める必要はない。自分に関わろうとする者がいる可能性があるかどうか。そしてその者が悪意を持っていたり、相応の理由を持って近づいている可能性を探るために行っている。
これにより、仮に「気のせい」かもしれぬと思っても、頭に入れて置く必要がある。
「悪意を持つ者ほど、自分の正体を隠そうとする」のは生きた人間と同じだ。
堂々と姿を見せる者は、さほどの悪意を持たぬことが多いので、見てくれは恐ろしくともリスクは少ない。
こういう判断は、世間一般の「心霊現象」に関する関心の持ち方とは真逆になる。もっとも怖いのは、声を出さず、姿も現さぬ者だ。理由が見当たらぬのに、偶然とは思えぬ「障り」が出る。
「何もない」ことが最も望ましい状態なので、疑いが「気のせい」で済むなら、それに越したことはない。
存在を疑って、たかを括ったり、手を打つのが遅くなると、対応が間に合わなくなる場合がある。
つい最近も、廃病院の事務棟に「悪意を抱えた女」の姿を見たら、その日の夜には両足が紫色に変わり腐り始めた。一日二日の違いが生死を分ける場合がある。
「かもしれぬ」の段階で、「その時の対処」を頭に置く必要がある。
場数を踏めば踏むほど、やっかいな者が寄って来る。神社でお祓いを受ける程度では、何ひとつ解決しない。祈祷師も同様で、ただ金を失うだけ。己の力で立ち向かうしかない。
いつも記す通り、興味本位からあの世を研究しているわけではなく、「リスク回避」のためにやっている。
毎日が必死なので、面白半分にあの世を語る者を見ると腹が立つ。
そういう者には、私の「知り合い」を一人分けることにしている。
その相手に手を触れて「行け」と言えば、たぶん渡せると思う。
私は二十年近く、「深夜(2時頃)、玄関の扉をノックする音を聞かされて来た」し、台所にいる時に、カウンターの陰で「誰か」に立たれた。時々、悪縁(霊)に乗られて、その都度生死の境目まで行く。
これもベテランになったことによる弊害の面が大きい。見ると増えるので、「そういうこともある」と頭に置き、無暗に近づかぬ方がよい。
さて、「でっかい女」の存在を確信しているのは、こういう不鮮明な画像を根拠とするわけではなく、時々、「声が聞こえる」ことによる。「気のせい」などが入る余地のないでっかい声だ。
知人の誰か(家人など)の声を真似ていたりするので煩わされる。