◎幽霊の存在を実証出来るか
家人は「オトーサンは、ネットのゴースト研究の仲間に入ればいいんじゃないの?」と言う。
「いつでも心霊写真が撮れるんだから、きっとバズれるよ」
ダンナの答えは「ブあか言ってろ」だ。
私は好奇心や探求心で「あの世」について調べているのではない。少し気を抜くと、今日明日中にあちら側に連れて行かれる可能性があるから、あっさりやられてしまわぬためにやっている。
要は「敵を知らば」ということだ。(「己」の方はきっと何時までも分からずに終わる。)
それなりに生きた証を残すためには、もう少し時間が必要だ。それには「お迎え」がなるべく近くに来ぬように防御策を立てる必要がある。
何せ過去に一度、現実に「お迎え」に会った。一度目は「期限延長の申請」が成功したが、二度目の延長が可能になった者はこの世にいないようだ。そもそも、「お迎え」が来てから一年以上生きている者は、知り得る限り地上に私だけだ。夏目漱石は半年で連れて行かれたし、遠縁の金太郎さんは「お迎え」を一度延長して貰ったが、一年後に再び来て、二度目には連れ去られた。
この意味では、表題の「存在を実証出来るか」はナンセンスな話だ。何故なら、存在しているのはもはや既知だからだ。ただ、宗教が語って来た世界観とはかなり違うようで、神に頼らずとも合理的説明が出来そうな面がある。その意味では、「あの世の解明は、信仰ではなく科学によってなされる」と思う。
だが、自動車の構造(例え)を簡単に説明するのが難しいように、細かなルールや決まりのようなものが沢山ある。それを逐一整理するのは煩雑で、「あの世はこんな世界」とひとことで言うのは面倒だ。
しかし、この目的は「知ること自体」でも「説明すること」でもなく、「実際に活用すること」だ。自動車の構造を説明出来なくとも、運転は出来るし、現実に役立つのは、構造理論ではなく運転技術の方だ。
要は「自分が技術を会得して、乗りこなすこと」が目的なのだから、構造の説明などソコソコでよいし、他人とその知識を共有する必要もない。
今の私が仮に自称霊能者や宗教家に会った時に、最初にすることは、自分が常に連れ歩いているあの世の者を一人二人その相手に渡すことだ。これは握手をして、肩をポンと撫でるだけで出来ると思う。
後は「お手並み拝見」で、一切、助言はしない。自分がマスターだと言うのだから、自分で出来る話だ。私は特別な能力など持たぬ凡人だし、宗教的な世界観も語れない。ただ自分なりにコツコツ努力しているだけなのだから、意見を言うのもおこがましい。
目の前に現れる「それ」は、ホラー小説や映画で感じる恐怖とは桁が違う。
スマホから響く死者の声を聞いてみろ。
さて、最近もかなり攻められている感がある。「気を抜くと、かなりヤバい」状況だ。
そこで、「兆し」を見落とさぬように、定期的に過去の画像を振り返ることにした。
1)お稚児さま
小鹿野の旅館に、この「お稚児さま」が居るのを発見したのはごく最近だ。五六年前の画像にも残っていたが、他にもあれこれ気になる箇所があり、気付いていなかった。
だが、「認識するとどんどん出て来る」のもこのジャンルの常だ。これを確かめる目的で、この旅館を訪れると、やはり今回も現れていた。
幽霊を見るにはそれなりの見方がある。「光の進行方向を見極め、屈折率の不自然な箇所に着目する」というのが、最も基礎となる眺め方になる。
映画の『プレデター』には、体を不可視化する宇宙人が出て来るが、姿が周囲の景色に溶け込んでいる。だが、光の屈折がほんの少し異常な箇所があるので、それでそこにいると判断出来る。
「幽霊」は「透明宇宙人」を眺める感覚に似ている。
普通は「物」そのものを見ようとするわけだが、その少し手前にある「光」と「光の進行角度」に着目すると、見える層が変化する。
最初の画像では、子どもの姿は殆ど認識出来ぬが、二枚目になると浮かんで来る。
透明な光の断層に合わせてシルエットをトレースした時に、初めて子どもの姿が浮かんで来るのだ。
一つひとつは石だったり草だったりするわけだが、ベンチの上に見える右腕付近は、該当する事物が無い空間だ。ちゃんちゃんこを着た子どもは、ベンチを遮って存在している。
この「お稚児さま」は幽霊としてはかなり見やすい方で、肉眼で幽霊を見た時の見え方によく似ている。また人体と幽霊は赤外線の反応(反射)が違うので、赤外線カメラを通せばより分かりやすくなると思う。
2)煙玉なのか
これはつい一昨日に撮影したものだ。
神社の神殿の中に、紋様の入った丸い球が見えるのだが、室内にはこれに該当する置物などの物が無い。完全球体でもなさそうだし、解釈に困る。
煙玉かもしれぬが、殆どの煙玉は白色だ。
この神社では、自然的な煙玉や、あの世に関係した煙玉など、煙玉が時々画像に写る。煙玉自体は自然現象の一環だが、これを催起させるあの世要因があったりする。
以前、この神社から五十㍍ほど坂の下に集会施設があったのだが、そこで撮影した煙玉と比較してみると、内部の紋様の雰囲気はよく似ているが、今回のは水晶球に色付けをしたような印象だ。
「放射状の筋」の有無と言う違いもあるが、こちらは出たり出なかったりの変化があるので較べられない。
今回は性急な結論は出さず、繰り返し情報収集に努めることにした。
球体の下は「猫」のかたちをしているように見えるから、置物の一部である可能性も棄却できない。
3)項垂れる女
同じ画像の右側には、女の姿が残っているのだが、これは見分けるのが難しい。見出せぬ者も多いと思う。これは他にも沢山いるからで、幾重にも重なっているように見える。
だが、より実体化しているのは、項垂れている、もしくは祈願している女で、うなじの辺りの髪の毛の生え方も、それと判別しやすくなっている。
ここにこういうものが映るとは想定していなかったので、どうにも判断に困る。これも継続的に観察する。ま、こちらに関わろうとする者でないことは明らかで、無理に追究する必要はなし。
4)背後に立つ女たち
今回、資料として、神殿の内部の写った画像を検索したが、たまたまそのおかげで、これまで見過ごしてきた画像を発見した。
令和五年の九月のこの画像は、あまり鮮明ではなかったので、放置していた。
私はガラス戸の合わせ目に立っていたので、左右に二重映りしているものだと見なしていた。
だが拡大すると、二重映りしている筈の左腕二本の色が違う。そもそも、二重映りなら左右のガラスに各々左腕が映る筈だが、これは一枚の中に二本ある。カメラを持つ手の方が私の腕で、もう一本は顔の前にあり配置が異なる。下半身の方が不可思議で、スカートを穿いた脚のように見える。
要は、「私が二重に映っている」のではなく、「私ともう一人が映っている」のではないか。
これとそっくりな構図が令和四年の画像で、こちらでは私の背後には膝丈スカートの女が立ち、私の右肩に頭を預けている。
ついでに五年のケースを引くと、私の左側には事務服の女が立っている。この女は私の左半身を消しているので、生きた人間とは思われない。人間の体を半透明にするのは、人間ではなくアクリル板だけだ。
あの世(幽界)は元々、可視域の境界線以外にあるので、目視は難しい。カメラ(レンズ)は捕捉域が幾らか広く、またガラスに反射させることで、光を選択的に扱うことが出来、幾らか可視化しやすくなる。それでもやはり、正体を鮮明に掴むのには幾多の障害がある。
見定めが難しいために、「たまたま」や「気のせい」を完全に排除するのは困難だが、しかしその一方で、「総てを『たまたま』や『気のせい』として排除することも適切ではない」と言える。
少なくとも、「ひとの姿をした何か」は確実に存在している。
「死ねば終わり」ということこそ短絡的で、まさに愚か者の発想だと思う。
ちなみに、私は総て自分自身で撮影したものだけを対象にするので、本物偽物の確認は不要だ。
冒頭で記した通り、ウケる・バズるつもりなどまったくなく、他者がどう思うかには関心がない。
この世に数人はいるだろう「私と同類」が無用に早死にしなくて済むように記録を残しているだけで、その候補には、私の子どもたちも含まれる。いずれ親と同じ苦痛を味わうことになるかもしれず、その時には私はいないので、記録を残すということ。