日刊早坂ノボル新聞

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◎病棟日誌 悲喜交々 2/6 「境目が無い」

病棟日誌 悲喜交々 2/6 「境目が無い」
 昨夜から雪で、火曜早朝には十数㌢ほど路面に降り積もっていた。
 当家の車は車検切れで廃車にするつもりなので、昨年からスタッドレスを穿きっぱなし。溝が減り、雪道の用には足りない。
 妻子は歩いて駅まで行った。
 この日は私自身も通院日だが、想像通り、朝にはタクシーに電話が繋がらない。結局、歩いて行くことになった。
 足が悪く六に歩けぬが、これは致し方なし。他に方法がない。
 ま、長靴は前にスペースがあるので、ゆっくり歩けばナントカ。
 病院までは一キロ半。普通はニ三十分あれば行けるが、足が痛むのでニ三倍かかる。
 結局、一時間以上かかって病院に着いた。
 最近はほとんど歩いていなかったから、かなりしんどい。

 この日は眼科もあり、まずはそちらから。
 眼はようやく点眼が必要なくなり、平常に。経過を聞くと手術を受けたのは半年前だったそうだ。当人は十一月頃かと思っていた。
 視力は術後にはパッと良くなったのだが、その後徐々に落ちて、出血以前と変わらなくなった。ま、元が乱視やら老眼やらで細かい文字がよく見えない。前が見えるだけでよし。

 病棟に戻ると、既に昼頃。気管支の状態が変わらぬので、病棟の担当医に状態を報告した。
 前回の医師に処方して貰った薬が「麻薬成分入り」だとかで、一日に一回程度が通常の飲み方だが、三度飲んでいたからえらく便秘している。別の薬に替えて貰った。
 麻薬入りの方は、イマイチ気分が良くない時のトリップ用にでもしまっとくか(冗談だ)。
 遅く入り、眼科も併診したので、病棟を出る最後の患者になった。
 帰路は歩く元気がなくタクシーで帰った。
 
 路面の雪が溶けて無くなったので、夜に娘を迎えに車で駅まで行こうとしたが、車まで長靴で行った。
 暖機運転をし、方向を替えようとすると、ブレーキが踏めない。「踏み間違う」のではなく、ブレーキペダルに足が当たらず空振りする。底が厚いのと、長靴は足首が固定されがちだから、感覚がまるで変わってしまうということ。
 危ないので、一旦家に戻り、普段の履物に穿き替えた。

 乾いた道路の一部に氷が張っている状態が最も滑りやすい。スリップしかけた時に、足がペダルを踏めぬのでは危険度が二倍になる。ま、いざスリップが始まったら、ブレーキもハンドルも宅には立たない。あくまでその手前の段階の話だ。
 いつも思うが、オートマ車は左足側が大きく開いているのだから、中央のブレーキのサイズを二倍にすれば、ペダルを踏み間違える事故が半減以下になると思う。
 クラッチが無いことで、運転手の体が斜めになっても自覚し難い。これでペダルの位置が曖昧になる。バックする時に踏み間違えが多くなるのはこのためだ。これを解消するのは簡単で、「ブレーキペダルのサイズを大きくする」だけでよい。
 踏み間違え事故は年齢を問わず起きているが、「高齢者の」時だけニュースになる。メディアにとって格好の標的が出来るからで、実際には30台でも40台でもこれは起きている。もちろん、起きてからの反応により、重大事故にならずに済む割合が幾らか変わるから、年寄りの方が不利ではある。
 だが、これは加齢が原因なのではなく、車の構造が原因だ。
 これは「マニュアル車では踏み間違い事故が起きない」ことで証明される。この場合、「殆ど起きない」ではなく「起きない」だ。
 「車の構造 」が原因だと知れると、何かと都合が悪いから、貶めやすい方に問題を寄せる。

 以下は例え話。
 非喫煙経験者の肺癌罹患率が15%であるのに対し、喫煙者のそれが30%であったとする。「喫煙者の方が罹患率が高くなる」ことが言えそうで、差が15ポイントあることで、肺癌生成に関わる強い要因(パラメータ)になるのは確か。だが、そうでない割合も15%あるから「肺癌は喫煙によって起きる」という因果論的な説明は出来ない。非喫煙者でも罹患する者が相当数いるからで、この他に遺伝とかの要因が存在している。
 だが、一般的には、丸めて「煙草は肺癌の要因です」と喧伝される。ちなみに、国民の健康保持のためなら、「たばこ税を上げて、喫煙行為を抑制する」のではなく、「喫煙自体を禁止する」のが筋だ。
 だが、現実はその隣に「煙草は市内で買いましょう」という看板が出ている。
 「踏み違え事故」も、「年齢層を問わず発生している」ことと「高齢層の重大事故化が高い」ことは言えそうだが、「加齢」が「踏み違え事故」の原因かというと、全然言えない。
 この先は実際にケースワークをしてみる必要があるが、「踏み違え事故」に関わるパラメータはもちろん「加齢」だけではない。
 もし車の構造にそれがあるなら、高齢層から免許を取り上げる前に、そちらを改善する方が先だと思う。
 少なくとも、若年層や中年の「踏み違え」を抑制出来る可能性がある。
 結論はもう出て居り、それが「ブレーキペダルのサイズを大きくし、大雑把に中央付近を踏んでも、足がペダルに当たるようにすればよい」ということ。

 脱線した。
 帰宅して、夜に少し仮眠を取ったが、早速、悪夢が始まった。
 「黒服の男五人が、自分を鹹め捕りに来る」という、内容的には普通の悪い夢なのだが、問題はその男たちの表情だ。
 目覚めてから、「何故苦しめられるのか」を考えたが、それはその顔が「かつてお迎えに来た者にそっくり」だったからだ。
 あの世の者は、感情だけの存在の筈だが、人間らしい喜怒哀楽(情緒)が感じられない。普通の幽霊たちと「お迎え」はまるで違う面がある。
 今はまだ夢の段階だが、いずれ覚醒時にあいつらが姿を現す時が来ると思う。どう対処するか考えて置く必要がありそうだ。
 かつての「お迎え」は二人組だったが、今回は五六人で来そう。

 死が身近に来ていない者は、「現実」と「イメージ(想像や妄想)」の境界が明瞭で、各々が分離しているから、「別のもの」と認識する。
 ところが死期が迫った者には、その中間に「中間世界(ゼロ)」が現れる。
 「ゼロ」とは数字の「0」と同じい意味で、「他者に関わらず、関わられないが、しかし存在している者」のことだ。すなわち「幽霊」もそれにあたる。
 健康な者には触れぬし、聞こえぬから、殆どが「存在しない」と思っている。
 だが、死期の迫る者には、それは「現実」と「イメージ」の両方に跨って現れる。このため、「見えぬ筈の者が見え、聞こえぬ筈の声が聞こえる」ようになる。
 私は既にこの段階だが、「現実」「中間世界(ゼロ)」「イメージ」との境目がはっきりしない。全部が跨って存在するようになっている。

 なお、この「中間世界(ゼロ)」が「幽界」と完全に一致するのかどうかは、まだ分からない。

 「幽界」を説明するのに、最も簡単な言い方は、それが「ゼロと同じ関わり方をする」というものだ。
 生きた人間を基準にすると、幽霊が居ても居なくとも、実生活には何の影響もない。足しても引いても変化はない。
 だが深く関わろうとすると、たちまち自分も幽界側の者に変化してしまう。過度に信じすぎたり、否定し過ぎると、存在は無に帰する。
 こんなのは昔から認識されて来た「あの世」の姿だ。
 「ゼロ」は「零」で、すなわち「霊」のことだ。
 足したり引いたりの関わり方が出来ぬし、無理に利用したり蔑んだりすると、たちまちその者も「霊」界に引きずり込まれる。

 「あの世」が私に「現実関与」するようになったのは何時の頃からか考えたが、「お迎えが来た時」よりも前であるのは確実で、「心停止をした時」か、あるいはその前かもしれん。

 ごく若い頃、女子とデートしている時に、ふと「遠い将来に、この女子にこんなことを言われる」というイメージが沸いたことがあった。
 その女子とは結局疎遠になったが、その後の人生の各所で交流があった。何十年も経ち、昔のことなど思い出してもみなかったのに、ある時、「若い頃に観たのとまったく同じ内容の言葉」を伝えられた。
 まだ十台の頃に観たイメージが何十年も後に現実になったが、一言一句が昔聞いた内容だった。
 そこで「宿命みたいなものはあるのだ」と実感した。

 悪夢があまりにリアルだったので、その後の心の調整のために、どうしても記述が長くなった。
 たぶん、ずっとこのままの状態になると思う。