日刊早坂ノボル新聞

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◎第六感の質(636)

令和四年四月二十三日撮影

◎第六感の質(636)

 「なるべく神社やお寺に行くのを控えよう」と考え、それを実行して来たのだが、今回はそうもいかぬらしい。宗教施設特有の「気の流れ」に触れぬようにすると、あまり「あの世」の所在を感じずに済む。道を歩いていて、「この先の建物の陰に女が立っている」みたいなことを察知しなくて済むなら、警戒心を幾らか解除出来るようになる。

 だが昨日の夢に出て来た「ふた口女」は、これまでの経験上、「ただの夢」ではないことは疑いない。

 自身の想像の産物ではなく、外的要因が必ずある。

 最近は通院後はかなりキツイ状況なのだが、しかし、早く手を打つ方が得策なので、無理を押して神社に参拝した。

 

 結果は予想通り。

 「女」がしがみついていた。

 悪意を持つ者ほど、自身の姿を隠そうとするものだが、どうしても「付帯的な変化」が生じる。

 光の進行方向が変わり、景色が歪む。

 煙玉が出る。

 勘違いしている人が多いのだが、煙玉は基本的に自然現象だ。まれにあの世の関わる異変が生じた時に、付帯的に物理的変化をもたらすことがある。「あの世」が直接もたらすものではなく、付帯的な影響のひとつということ。煙玉(オーブを含む)は、霊的現象そのものではなく、ごくまれに結果として生じた物理的変化のひとつだということ。光と湿度、気圧の関係で生じる。

 当たり前のことだが、「あの世」と関わりなく、TPOが合えば煙玉は発生する。

 本物も偽物も無く、物理的な反応だ。

 

 となると、逆に「標識として使える場合がある」ということでもあるから、「何故そこに生じたか」を考えることで、状況を紐解くヒントになるかもしれぬ。

 何枚目かの画像は、急にピンボケとなり、かつ頭の上に木漏れ日とは違う明るい部分が生じていた。

 玉にもなっていないから、「煙」の状態だ。

 特別な理由がある場合もあるし、単なる気圧変化のこともある。

 そこで近くを見ると、私の額に光る玉が乗っている。ちなみに、ハゲに日光が反射したわけではないので念のため。山の木々の背丈が伸び、もはや神殿の前に日は差さない。

 

 これはいわゆる「ひかり玉」で、子どもや第六感の立った人によく出る。

 世間には「霊感の強い人」や「霊能者」がいるわけだが、それが事実なら、必ずこの「ひかり玉」が写った自身の画像を撮影した経験がある筈だ。もし無ければ、その人の霊感は単なる想像や願望だ。

 これまでに会った「第六感の立つ人」は、その全員が「過去に(画像に)ひかり玉が出たことがある」と言っていた。

 第六感の立つ人には「ひかり玉」(シャイニング)が出る。そしてそれは、あの世の者(幽霊)からも見える。このせいで、「霊感の強い人」、「第六感の立つ人」には、他の人よりも多くの幽霊が寄り集まることになる。

 結果的に、そういうものを祓う配慮や手間が必要になる。

 煩わしいことが増えるだけなので、霊感・第六感には何ひとつ良いことが無い。

 唯一、ましなことと言えば、自分に対しよからぬ力が加わった時に、それを早期に発見し、対処を打つことが出来るという点だけではないか。

 

 画像は朧気で、殆どの人にとっては「気のせい」だろう。もちろん、それでよい。

 自身に関わりのない件については立ち入らぬ方が無難だ。

 もちろん、私は違う。事前にこの「女」の顔を見ているから、それと一致するのであれば、画像の鮮明さなどは関係ない。私に関わろうとしているのは歴然だ。

 あの世は、摺りガラスを通して見る別室(浴室など)の様子に似ている。断片的であり、ごく朧げな姿しか見えぬ。

 「摺りガラスの向こう側に人影が見える」時に、それが鮮明かどうかは、どうでもよい些細な話だ。重要なのは、「そこに何かがいる」ということ。

 扉が開いて、相手の姿が目の前に見えるまで、「見えぬからいない」と言い張る人がいるが、開いた時では間に合わない。取り憑かれて、魂を食われるだけ。

 

 「女」は黒いショールで鼻から下を隠し、顔を見せぬようにしている。

 額付近は割と鮮明で、眼に力がある。

 コイツは悪縁なので、覗き込まぬ方が無難だ。こちらが見えずとも、先方からは見る者の心の内が見える。

 「女」は私の腕を掴んでいるが、白い煙が私の腕の上にあることで、背後の景色ではないと分かる。

 

 これから死霊祓いの日々が続く。

 既に心身ともに限界が来ているから、間に合うかどうか。