◎実体化のプロセス(1/6の補足解説)
1月6日の画像は、「あの世」現象が具現化する典型的なパターンに沿っている。
その「典型的なパターン」とはこのようなプロセスのことだ。
1)周囲5メートル四方くらいから、煙玉が湧くように現れる。
数が急激に増え、渦を巻くように人を取り囲む。
2)周囲に眼に見えぬ煙(または霧)が立ち込める。
多くの場合、画像でしか確認出来ない。(ちなみにこの煙を「幽界の霧」と呼んでいる。)
3)煙の中から眼(視線)や人影が現れる。
煙が変化して形成される。 (これを「(霊魂の)実体化」と呼んでいる。)
4)「実体化」が完成すると、目視も出来るようになる。
各ステップについて、分かりやすい事例があるので、①~③の順に並べてみた。
各々のステップについては、目視確認が難しいため、それと気付かずにいることが殆どなのだが、「何となく薄気味悪い」感じがある時には、既に始まっているようだ。
いずれも既にお馴染みになった画像だが、時間の経過と共に変化が生じるから、開く度に新しい発見がある。
ところで、「眼」について頻繁に記述しているが、この「眼」とは向こう側からこちら側を見る視線のことだ。これは具体的な「眼」のかたちをしていることが殆どだ。
視線に慣れて来ると、眼のかたちをしていない場合でも「こちらを見ている」ことが分かるようになる。
いわゆる心霊写真では、この「眼」の所在が重要で、こちらを「見る」ことの意味は、文字通り、「確認したいことがある」「求めている」ということになる。
多くは「接点」を探し求めているわけだが、その理由は「助けて欲しい」からだ。
かたや悪意を持ち、相手と「同化」を図ろうとする者は、極力、視線を悟られまいとする。
眼(視線)を向けぬ者はほぼ「通行霊」で、こちらのことが見えていない。
都会の雑踏と同じく、交流を持つつもりの無い相手だから無視して良い。
ちなみに、画像を見る時に、私が最初にチェックするのは「眼」があるかどうかということだ。
いつも例え話として使うが、「前に百人の人がいたとすると、一人ひとりについては、もはや目に入らなくなる。だが、その中に一人でも自身を注視する者が居れば、人は『見られている』と感じるもの」だ。人によっては、背後から背中を見られていても、「何となく見られている」と感じる者もいる。
これが第六感であり霊感の原点だが、もちろん、あくまで「想像や妄想」に支えられたものだ。
「感覚」は「能力」ではないので念のため。
「あの世」を理解する最大の妨げになっているのは、「第六感・霊感」を特別な能力だと見なす考え方だ。ひとが死んだ後も、何らかのかたちで「自我・自意識が残る」のはほぼ確実で、正しい方法論に従い検証して行けば、いずれ「どのように死ねばよいか」を導くことが出来るようになる。
だが、そういう努力をせず、死やあの世に対する恐怖だけを撒き散らす。
無意味であるどころか、害をもたらしている。
それが能力なら、心霊写真などいつでも自由に撮れる筈だが、自分で撮影する「霊能者」はいない。
「亡くなったお祖父さん・お祖母さん」や「守護霊」の「物語を語る」だけだ。
「死」は必然だが、「存在の終わり」を意味するものではない。
家族や友人知人、または自身の「気に入らぬ者」や「敵」に至るまでの、あらゆる人間関係を「一旦卒業する」だけ。
「卒業」が間近になったら、本来すべきことは「次の入学」の準備だ。それなのに、「卒業(死)で総てが終わる」、「卒業(死)を極端に怖がる」者が多い。
「卒業生(幽霊)がどれほど怖ろしいかを語る」に至っては、もはや言葉も無し。
以上の例え話で、このジャンルでどれほど愚かなことが行われて来たのかが分かる。
付記)推敲も校正もしませんので字句等の不首尾はあると思います。私には時間が最も貴重なので、そういう事情によるとご理解ください。