日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎静寂を取り戻す(569)

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令和三年三月十二日撮影

◎静寂を取り戻す(569)

 三月十二日は外出の折に、いつもの神社に参拝した。

 既に危機を通り越したから、気分は上々だ。

 今年はお正月が分散詣となり、参拝客が長期にわたり訪れていた。しかし、ようやくその波が収まり、平日は境内が閑散とするようになった。参拝客の多くは祈祷所の方でお祓いを受けるのか、神殿の前にはほとんど人がいない。

 

 いつも通り、自分自身を撮影したが、別段何も異常が無かった。

 もちろん、ゼロにはなることはないが、自分に関わろうとする者でなければ、存在しないのと同じことだ。

 もっとも簡単な目安は「画像の歪み」なのだが、この日は大きな変化が起きなかった。

 

 もちろん、幾らかは必ず出る。

 三枚目の右側には、黒いジャケットのようなものが映っている。

 ここにそれと見紛う物はないし、人の顔らしきかたちが現れようとしているから、「現実には存在しない人影」だろう。要するに幽霊の類だ。

 亡くなり方によって、現れ方も異なる。

 断片的な出方は、多く自死者なのだが、この感じは鉄道で死んだ者だと思う。

 体が分断されているのは、いまだに錯乱状態のままでいるということだが、もはや神社まで来られているのだから、あともう少しだ。

 「今の苦痛から解放してくれるのは自分自身以外にないぞ」と告げ、お焼香をした。

 幾分気持ちが悪いのだが、まだ首を吊った者よりはまし。

 

 境内に入ってから思い付き、赤外線ライトを点灯したのだが、これであちこち眼を覚ましたようだ。

 徐々に光が歪み始めていたようで、暫く後には幾らか実体化しただろうと思う。

 

 悪縁の気配が消えたが、アモンは私の心と半ば同化している。

 このため、「この世に正義を、仲間には信頼と愛を」みたいな言葉が聞こえる。

 生きていても死んだ後も、悪いヤツが標榜するのは「正義と愛」になっている。

 ま、あの世の方には善も悪も無いから、アモンは「悪いヤツ」ではない。少し過激なだけだ。

 生きている者の言葉は概ねイカサマなのだが、あの世の者は心の奥底からそれを信じている。利得という意識または願望は、あの世では意味をなさないから、単に「正しい」かどうかだけ。

 ただ、あの世の正義には「情状酌量」がなく、主義に反する者にはリミットレスの雷が降り降ろされる。それだけの違いだ。

 勿論のことだが、以上はあくまで想像や妄想の話なので念のため。私には現実だったり非現実だったりすることもあるが、他の人にとってはあまり意味がない。ほとんどの人はあの世の存在を目視することはないし、画像にも残らない。

 

追記)三枚目では、程なくジャケット全体が顔に変わるのだが、一体だけではないようだ。高齢の男女と五十歳くらいの女性がいる。
 死んだ場所はS線沿線で東の方。
 そこは自死の名所になっていると思う。

 かたちがどうのという問題ではなく、パッと見た時に「なんだか気持ちが悪い」と感じる。
 外に出た時に、理由なく「ここは居心地が悪い」と感じることが誰にもあると思うが、それはそこに悪縁が溜まっているから。
 ただ、そういうのはその場にじっとしているわけではなく、移動するようだ。