日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎切手難民(554)

f:id:seiichiconan:20210107015852j:plain
f:id:seiichiconan:20210107015842j:plain
f:id:seiichiconan:20210107015830j:plain
f:id:seiichiconan:20210107015817j:plain
f:id:seiichiconan:20210107015803j:plain
f:id:seiichiconan:20210107015751j:plain
令和三年一月六日撮影

◎切手難民(554)

 正月も五日になり、ようやく起きられるようになった。

 息子に頼み、コンビニまで年賀状用の切手を買いに行って貰ったが、年賀切手も普通の切手も「売り切れ」だった。

 今は皆が同じことをしているわけだ。

 翌六日になり、自身でゆうちょまで行ったが、駐車場に入るどころか、その手前で車が十数台も並んでいた。別のゆうちょでも似たようなものだった。

 「これじゃあ、名栗しかないな」

 名栗のゆうちょは二十五キロ以上先だが、間違いなく空いている。

 時間的には並んで待つか、運転するかの違いだが、ゼロ秒で窓口だから、気分が良い。

 

 だが、さすが正月で、名栗ゆうちょの前にも車が停まっていた。

 ひとまず、有間ダムに回って、新年のご挨拶をすることにした。

 さすが、この時期、こういうところは人がほとんどいない。

 レストハウス前に立っても、湖から「声」は届かず、「きれいになっている」ことを実感した。

 車で画像を開けて見ると、「完全にクリア」とは行かぬようだ。

 この地はこの辺一帯の「交差点」か「吹き溜まり」になっている。

 もちろん、私のような変人にとって、という意味で、殆どの人には「緑豊かで穏やかな地」に他ならない。

 

 詳細に画像を点検すると、煙の筋が出ていた。木の枝の中にも、枝のように見せかけた筋が走っているようだ。

 最初の画像では、私の肩に白いものが載っているのだが、これは「右手」だ。

 ここを訪れる度に、「ここから抜け出られぬなら、俺について来い。ご供養してあげるから」と伝えているから、それに従ったものだろう。

 ご供養し慰める代わりに、「常に私のサイドに立って貰う」のが条件だ。

 ご供養を施すためには、私が「生きている」必要があるから、それも条件に入る。

 「あと数本だけ書かせてくれればいいからな」

 二枚目では幾らか実体化しているが、手を伸ばしていたのは少女らしい。

 ま、この辺はこの手のを何百枚も見て来た者にしか分からぬかもしれん。

 また、ここでは時々、手が写るから、それを踏まえた思い込みかもしれん。

 いずれにせよ、問題は無いが、こういう場合は「ある」「いる」を前提として行動すれば間違いが起きる可能性が無くなる。

 

 あちら側からの接触があったことが分かったので、切手を買って賀状を出した後に、神社に参拝することにした。当初の予定では、「初詣は松の内が過ぎてから」と思っていたので、予定外の行動だ。

 神社は混雑しているかと思ったが、それほどでもなかった。

 神殿前では、死者が安らかに眠りに就けるよう祈願した。

 

 家に戻り、居間に座ったところで初めて気付いた。

 「ありゃ。体調が良くなっている」

 つい二日前には、体を起こすことも出来なかったのに、今は普通に起きられる。

 全身の痛みも倦怠感もなし。

 強烈な下痢をしていたのに、それも治まっていた。

 手立てを講じた後に、それがすぐに結果に結びついてくれるのは助かる。

 

 こういうのを信じるか信じないかはその人次第だ。

 私には内臓のほぼすべて(肝臓以外)に腫瘍があるが、普通に歩ける。

 信じ切れる者だけに、変化が生まれる。

 もちろん、病気になってから神さまを拝んでも遅い。

 「欲求の充足を求めること」は信じることとは違う。何ひとつ問題の無い状況で始めるのが「信じる」ということ。

  

追記)名栗を出る時に「※※ちゃん」と名を呼い掛けられたので、少しドキッとした。

この時、呼ばれたのは小学生の時の仇名で、今これを知る者は家族や親族だけだ。

 普通、誰もいないところで「名前を呼ばれる」のは凶兆なのだが、私は以前から時々ある。

 私は半分以上、「あの世サイド」の立場なので、通常とは条件が少し違うらしい。

 ま、「凶事・凶兆」は「気にせず笑い飛ばす」ことで、先には進まない。気にしてくよくよすると、逆に呼び込んでしまう。

 常に「ものは考えよう」、「気の持ちよう」だと見なすべきだ。