日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎庚申の水を汲みに行く(533)

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令和二年九月二日撮影

◎庚申の水を汲みに行く(533)

 体の循環が悪いので、カルキ(塩素)をうまく排出出来ない。そこで、時々、湧き水を飲用し、体外に出す必要がある。それには、ミネラル水ではあまり効果が無いので、自分に合った湧き水を探すことになる

 何気なくネットを見ていると、当家からそれほど遠くないところに「庚申の水」があった。場所は飯能名栗で、日頃通い慣れた道の一本隣の旧道沿いだった。

 早速、水を汲みに行くことにした。

 

 一本道なのでかなり分かりよく、すぐに見付けられたのだが、二台くらいの駐車スペースが既に埋まっていた。そこで、一旦、通過し、有間ダムに向かうことにした。

 「有間ダム」と名を書くのは久し振りだ。一年前に異変を察知してから、時々訪れては、ご供養を繰り返していたのだが、妙な噂が立たぬように名称は秘匿して来たのだった。

 だが、この日降り立つと、どうやら浄化が終わったようで、「視線」が少ない。

 あとは、護岸工事が終わったところで、一番奥にある岸付近を浄化すればよいだけだ。

 

 もちろん、完全なゼロにはならない。この世はあの世と重なっているから、「まったく無い」ところは存在しない。「スポット」だけが特別なのではなく、誰の家の中にも「目に見えぬ同居人」が棲んでいる。

 しかし、何ら影響がないのであれば、「存在しない」のと同じことだ。

 もはや暫くの間は、ここで「不浄の者」に悩まされることは無い。

 今日の「視線」はひとつだけで、母子ひと組だった。子は母が創り出したイメージではないかと思う。元々、ここにいた者ではなく、途中で私を見付け、ついて来た。

 こちらの存在を感じ取れるからついて来るわけなので、別段、おかしなことでも不思議なことでもない。

 カメラを構えた時点で視線を検知したので、「助けてあげるから、私の言葉を信じ、従うといい」と伝え、連れて行くことにした。

 これまで「存在を証明する」ことを重視し、極力、画像で示して来たが、実際は「どう見えるか」はあまり関係がない。

 「視線」はそもそも目には見えないからだ。だが、対処が可能だと分かれば、もはや証明する必要もない。

 見ようとする者には、いずれ見えて来るはずだし、瞼を塞ぐ者には何時まで経っても見えることは無い。もうそろそろ放っとけ、ということ。

 

 帰路も「庚申の水」付近には車が停まっていたので、仕方なく路上に車を停めた。

 蛇口が二つあるから、水量は十分に出ているようだ。

 ちなみに「庚申供養塔(または塚)」は大陸由来の信仰で、元は道教の教えのようだ。

 どういう背景があるかは、ネットで調べられるので、そちらをどうぞ。

 私の郷里では、「庚申供養塔」というと、別の意味が加わる。

 天明の飢饉の際に、多数の餓死者が出たのだが、死者の多くは「神仏に縋るために庚申供養塔の近くに行き、そこで折り重なって死んだ」と伝えられる。

 そういう由来を持つ塔があちこちにあるから、そのための供養塔だと思っていたほどだ。

 だが、関東以西では、本来的な信仰に依っている。

 

 帰路は神社に参拝した。当初、「せめて百回までは生きていよう」と思い、「御百度」を始めたわけだが、神社猫のトラに助けられ、百回が二百回になりと続き、猫がこの世を去ってからも継続出来ている。

 ま、医学的には「ほぼアウト」の状態だから、自分なりの信仰が奏功していると思う。

 自らの死を受け入れる心の準備は出来ている。

 

 神殿前で写真を撮影すると、やはり一枚目で右腕が膨れた。

 ガラスの継ぎ目でも何でも無いから、それと無関係ということだ。位置はどこでも同じだから、ガラスの表面が歪んでいるわけでもない。

 写る側の問題だろうとは思う。

 私の前に男の子がいるから、おそらくあの母子だろう。画像では見えないだろうが、前に立たれた当事者は分かる。

 霊感・第六感は、「そもそも想像や妄想」に立脚するものだから、本人が納得すればそれでよい。