日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎夢の話 第916夜 裏はどう書く?

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◎夢の話 第916夜 裏はどう書く?

 十月一日の午前三時に観た短い夢です。

 

 我に返ると、目の前に看護師のエリカちゃんが座っていた。

 エリカちゃんは、俺と同じように、「日頃から幽霊に悩まされる」タイプの人だ。

 どうやら、俺の方がエリカちゃんに何やら説明していたらしい。

 

 「そこで」

 俺の眼の前には紙があるのだが、それに何やら俺自身が書いていた。

 「五芒星の中心に自分の名前を書く。正式には生年月日と住所も書くが、自分で持つ分には省略して構わない」

 

 「それはともかく、お守り袋にその紙を入れ、いつも『自分は守られているから、誰も自分の領域を侵すことは出来ない』と思うようにすることだ。紙や文字に特別な力があるわけではなく、『信じる』ことにより力が生まれるんだよ」

 信じぬ者には、お守りや護符は「ただの紙と木」に過ぎない。それを持ったからと言って、何のご利益も無い。「信じる」ことは「願う」こととは違う。

 説明が長くなるから省略するが、読経を一万回しようが、写経を千ページ行おうが、ただ行うことに意味はない。考え、信じることで信と念の力が生まれる。

 

 「神社やお寺に行き、『どうか大学に合格させてください』『沢山お金が入りますように』と祈願しても何ひとつ状況は変わらない。あの世の者が働き掛けられるのは、専ら『こころ』だけなんだよ。『自身の力で大学に合格したり、富を築くことの出来るような強い心でいられますように』と願うのが正しい祈願のし方だ。人事は自分自身で解決するものだ。要するに、これは『私自身が強く、私を支える味方もいる』と信じるための護符だからね」

 細かい話なので、あまり詳細には立ち入らぬようにした方がよさそうだ。

 とりあえずやり方だけにしよう。

 

 「裏には起請文を書くのだが、とりあえず当面はトウという一文字だけでもいいからね」

 トウは大に十という文字で、祈祷の「祷」と同じ意味だ。厭勝銭で昔から「富トウ銭」というものがあるが、「富を願う」という内容で、要するに「まじない銭」になる。

 竈とか柱の根元に埋まっているのは、要するにそれを「祈願した」ということだ。

 江戸時代より前から「まじない銭」として認知されているのに、どういうわけか今の史学者は「貨幣」に「場所替え」しちまったがな。

 

 ここで俺はふと我に返る。

 「あれあれ。本当の起請文はなんて書いたっけ?」

  思い出せねーぞ。

 「うーん」と頭を悩ませながら、次第に覚醒。

 

  掲図は夢の中で自分が書いていた五芒星だ。

  裏が出て来ないが、いずれまた夢に観るとは思う。

  ちなみに、「開運」や「現世利益」を謳う神社・仏閣は、「それなり」のものだと思う。

 

 ところで、ある有名なお寺に行った時のこと。

 案内をしてくれた僧侶が言うには、「この寺の中でも誰もいない部屋で人の気配がすることがあります。おそらくかつての住職の誰かが」との説明だった。

 その時、私は「それって、『成仏出来ていない』という意味で、修行が役に立っていないということでは」と思った。

 書いてあること(要するに知識)だけではなく、実際に起きており、現世に関わる『あの世』を観察する必要があるようだ。

 

 ちなみに、この記事は「夢の話」なので念のため。

 信仰上のしきたりや作法に関わるつもりはまったくなし。

 私は「オレ(俺)教」の信者で、すなわち「直接、自分の眼で見て、耳で聞いたもの」しか信じない。

 勝負は「あの世とはこれです」と「出して見せられるか」どうかにかかる。