日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎繰り返し願を掛ける(577)

 

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令和三年四月二十六日

◎繰り返し願を掛ける(577)

 一度「祈願」を始めた以上、繰り返し願掛けを行い、実現に近付ける必要がある。

 祈願を具現化するには、「信」と「念」が必要だが、そちらの修練は日夜積んでいる。

 ちなみに、願いごとがあり、いきなり「こうしてください」と「願」だけを掛けても、何も変わらない。常日頃から信仰を持ち、念を込める練習をして置くことが前提だ。

 神さまをろくに信じていないのに、自身の「願いを叶えよ」と叫んだところで、何かが起きる訳がない。それはただの欲だ。

 

 しかし、月末が来ているので、先にやるべきことがある。

 コロナ以後、徐々に追い詰められているから、毎月を乗り越えるのが大変だ。

 あちこちに行き、この日の所用を済ませた。

 帰路には久々にN湖に立ち寄った。工事が一段落したようで、通行止めが一部解除されていた。

 湧き水を汲み、改めて、神社に参拝することにした。

 

 と言っても、祈願は鳥居を潜る前に行う。

 神に頼める祈願では無いからだ。

 再び、あの患者についてアモンに願を掛けた。

 恐らく百回は必要が無いとは思う。結果は程なく現れる。

 

 それが終わると、ようやく自分自身の番が来る。

 神殿に入り、日頃のお礼を述べた。

 今は、あの世(幽界)を身近に感じられるような季節では無いから、総てが朧気だ。

 ごくあっさりと「ほんの少しの違和感」を覚えるが、総て「気のせい」の範囲だろう。

 これが十二月や一月であれば、先方も堂々と姿を現し、自身の意向を伝える。

 気は楽だが、現実の暮らしの方は楽ではない。

 明日も明後日も、「今月を越える」ための段取りがいる。

 

 面白いもので、自分自身については神や仏、あるいはアモンを頼ることは無いのだが、他人のことならあっさりと祈願出来る。直接、自身に跳ね返るものが無いから気が楽なのか。

 何かを頼むと、返す義務が生じるが、「あの世」に関わる祈願は「ツケ」が重い。その負担を考えれば、「俺自身のことは自分でやります。助けは要りません」と宣言した方がお気楽だ。

 人生に困難や苦痛があるのは「当たり前」のことだからだ。