日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎呪詛はかけていない(618)

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令和三年十一月二十日撮影

◎呪詛はかけていない(618)

 土曜は通院日で朝から午後まで治療がある。

 終わり頃になり、看護師がやって来た。

 「あれ。止血バンドがありませんが」

 「え。そのカウンターの上に置いていた筈だが」

 ロッカーから持参するのを忘れたか、それとも・・・。

 ま、目の前の物がふっと消えてしまうことは時々ある。

 ここは、とりあえず病棟のバンドを借りた。

 そのまま昼食を摂ったが、食べ終わってみると、さっきまでトレイの上に置いていた薬が無い。

 食後に服薬するので、いつもトレイの上に並べて置く。

 「触ってもいないのに消えてら」

 ちょうどそこに看護師長が来たので、軽口を言った。

 「また小鬼が出て、止血バンドと薬を隠したようだ」

 この場合、「また」と言うのは、前にも同じようなことがあったからだ。

 カウンターに載せた止血バンドが、終わりごろには姿を消えた。

 その時の状況を師長も知っているし、「小鬼」の画像を見せたことがある。

 

 冒頭の話は、ただのたわ言のように聞こえるわけだが、師長は小鬼の姿を見ているだけに真顔で問い返した。

 「鞄の中の物が無くなっていることがあるのですが、そういうこともあるのですか?」

 「もちろん、滅多に無いが、鞄を逆さまにして床に中身を全部晒して見ても無いのに、数時間したら戻っていることがある。そういうのは小鬼の仕業だと思う」

 普通はそんなのが起きるのは「一生に一度二度」だが、私には時々起きる。

 

 ここまではやはり「ただのたわ言」なのだが、私はその「小鬼」を出して見せることが出来る。

 前にも公開したと思うが、画像がその「小鬼」の一例だ。老人の横にさりげなく小さい妖怪みたいなヤツが立っていた。これが令和元年の話だ。

 今思い返せば、これより前にコイツは現れていたようだ。

 初めてこの神社に入った時に、鳥居の下に猫(トラ)がいたのだが、この猫は私を見ると、すっと立ち上がり、私の前に立った。

 まるで先導するように前を歩き、神殿下まで導いたのだ。今は何となく分かるが、私を導いた猫は、さらに「何か」に導かれていたようだ。たぶん、人間には見えぬが猫には見える「何か」が猫の前に立ち、猫のことを先導していたのではないかと思う。

 恐らくこういうヤツだろうと思う。ちなみに、顔かたちが何となく猫を思わせるので、この「小鬼」のことは「猫わらし」と呼んでいる。

 

 「小鬼がまた悪戯したのか」

 と考えたところで、別の事態が起こって可能性に気が付いた。

 こういう風に目の前の物が消えたりするのは、何かの『お知らせ』の場合がある。言葉の代わりにメッセージを送っているわけだ。

 今、私に対して何かのメッセージを送るとすれば・・・。

 「おいおい。まさか呪詛になっていたりはせんだろうな」

 七月にコイン専門誌の誌上入札に出品したのだが、落札後に品物をすり替えて返品した者がいた。

 れっきとした犯罪なので、申し出れば当人の住所氏名が分かる筈だが、それは聞かずに置いた。

 名前を聞けば、文句を言うどころか、呪詛にかけてしまいそうになる。

 

 ひとの心の中には相互に重なりあっているが、相対的に独立した領域があり(いずれ後で説明)、「思念域」は所謂「念」、すなわち「意思」に関係する部分だ。

 例えば、酷い仕打ちをした相手に対し、「あんな奴は死んでしまえばいいのに」と思うのは「感情」だが、「死んでしまえ」「殺してやる」と固く思うのは「思念(または念)」だ。 

 「念」は物理的な力が働き、「死ね」と祈念した相手に影響が出ることがある、要するにこれが呪詛になる。

 「呪詛は力を伴う」と書いたが、力の作用は反作用を伴う。

 「ひとを呪わば穴ふたつ」という言葉があるように、誰かを呪えば、必ずその反作用がやって来る。

 私が常々、「この世もあの世もタダのものはない」と記すのは、そういう意味だ。

 今生に置いて何かをすれば、必ずあの世でそれ対価を払う。これは念域に限ったことではない。

 

 「もし知らんうちに呪詛にかけていれば、普通は滅多にないことだが、その者が生きている間に呪いが祟りになって現れる。それと同時に私にも跳ね返って来る」

 呪いにかけたつもりはないが、万が一のことがあるので、少し軽くすることにした。

 普通の通院日であれば、病院を出るとまっすぐ帰宅する。しかし、この日はお寺に寄り、多少なりとも業を抱えぬように計らうことにした。

 

 まずは六地蔵だ。飯能の観音寺に行き、六地蔵の前で手を合わせた。

 「母が安らかに眠れますように。コソ泥の子どもや孫が無用に死なずに済むように願います」

 祟るのは本人だけにしてくれ。

 

 次はいつもの神社だ。

 この日はいつもと違い、神殿で次のことを祈願した。

 「俺の仲間になり、この世に正義の鉄槌を下そう。その方が楽しいぞ」

 コソ泥だけでなく、世にはびこる法律逃れの悪人にツケを払って貰おう。

 「でも、なるべく本人にして下さい。子や孫、親戚友人ら関係者は除外して」

 そのコソ泥が死ぬ時には、アモンか私が迎えに行くとして、他の者に係累が及ぶのはなるべくなら避けたい。

 しかし、相手を選べるのは祈願(この場合は呪詛)する場合だけで、いざ悪縁に委ねたなら、何をするかはその悪縁の決定になる。

 

 コソ泥はこれまでも同じような行為を繰り返している。おそらく慣れてしまい、罪の意識すら少なくなっている。

 だが、必ずツケを払うことになる。それは死後だけでなく、生きているうちの話だ。 

 もう「男」が向かっているので、程なく「音」が始まることになる。

 その後、ちょっとした腹部の病気になるが、その先は知らない。

 

 悪縁に向かって「仲間になれ」と言うのは、まさに「逆転の発想」だった。

 これまでは、「如何に避けるか」ということばかり考えて来たのだが、そもそも私はアモンの側の者だ。

 抵抗はない。この世に必要なのは、「正義の拳が振り下ろされる」ことだと思う。

 幾人か「仲間」を送るべき者がいる。

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 この日は自分の状況を確かめる必要が無かったのだが、ひとまず習慣なので、幾枚かを撮影した。

 いつも起きるようなちょっとした異変はあるが、如何せん、このTPOでは鮮明にならない。 

 ただ、「仲間になれ」の言葉で、イリス(女の悪縁)が身を起こした。

 画像では「気のせい」の範囲だが、私はガラスの中にいるのを目視している。

 この後で立ち上がったが、女の頭は私の頭から三つ分上にあった。

 これまで幾度か目にして来た「大きな女」だ。

 

 「コソ泥」氏は、これまで盗んで来た品をお金に換え、児童福祉施設に寄付すると良い。それ以外に子孫が助かる道はない。

 難を逃れようと神社に行けば、その神社を焼くし、祈祷師にお祓いを頼めば、その祈祷師の周囲まで根絶やしにする。

 もちろん、最後は総てアモンさまの言葉だ。私は「ちょっとした腫瘍が出来る」くらいで十分だと思う。それも私が死ぬまでの話で、程なく私が死んだ暁には、私自身が「死神」になり迎えに行く。

 最後に気付いたが、悪縁に総てを委ねるのは、やはり呪詛にはならないようだ。

 このジャンルの最も良い点は、「単なる話」だと見なされることだ。

 世間的には「悪事を働くと、因果応報の目に遭いますよ」と言っているのに過ぎない。

 ただし、「小鬼」も「アモン」も「イリス」も現実に存在している。

 

追記)ちなみに、オークショナーには「現状保存をして置く」と伝えた。

 「ホルダーごと取り換える」という杜撰な手口を見れば、恐らく指紋が残っている。

 れっきとした犯罪なので、これで窃盗被害を申告出来る。

 しかし、こういうのは概ねオークショナーの近くに居る者のことが多い。しばらく様子見だ。二三年内に届け出る分にば、別に問題ない。

 今は監視カメラがあるので、スーパーで百円のボールペンを万引きすると、概ね警察が呼ばれる。そこは昔とは違う。