日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎悪縁(アモン)を押しとどめるための祈願(617)

f:id:seiichiconan:20211118045049j:plain
f:id:seiichiconan:20211118045041j:plain
f:id:seiichiconan:20211118045033j:plain
f:id:seiichiconan:20211118045023j:plain
f:id:seiichiconan:20211118045015j:plain
f:id:seiichiconan:20211118045007j:plain
令和三年十一月十七日撮影

◎悪縁(アモン)を押しとどめるための祈願(617)

 さて、前日の話の続きになる。

 ひとが心血注いで集めた品を「落札品のすり替え」という手法で掠め取った者がいる。

 状況を見ると、まさしく確信犯で、おそらく常習だろう。

 道楽の世界にどっぷり嵌った者で、「たぶん、露見しても面倒ごとを避け、警察沙汰にはせぬだろう」という腹が見て取れる。

 そこで思わず「こりゃ、罰を当ててやらねばならんな」と声に出して言った。

 

 すると、その瞬間、机の脇にある電話が「チリン」と鳴った。左サイドの受話器だから、回線数を減らした際に接続を切った方だ。電源は裏側にあり外しにくいのでそのままにしてあるが、回線自体は繋がっていない。このベルが鳴る理由はない。

 だが、コイツは時々音を立てる。あの世に関する画像の整理をしたり、その日経験した異変について記していたりすると、やはり「チリン」と鳴る。まるでこちらの行動や感情に反応しているかのようだ。

 もちろんだが、最初はもの凄く怖ろしく思った。もはや怪談の世界の話だ。

 だが、今ではもはや慣れている。

 「あ。アモンが聞いていたか」

 それなら、「欺瞞を働いた者」として、アモンがその犯人に鉄槌を下す可能性がある。

 

 多くのパターンはこうだ。

 本人は悪を為した当事者だから、死後に「ツケを払う」ことになる。

 これまで繰り返し書いてきたように、「この世もあの世もタダのものはない」からだ。

 悪意には悪意が返って来る。この世には不全を為して、のうのうとしている者がいるが、総てそのものの死後に跳ね返る。生きている者の眼と法律からは逃れられても、自分の記憶からは逃れられない。

 ひとは生まれ落ちてから死ぬまでの一瞬一瞬の記憶を総て憶えている。頭では忘れても、きちんと心の戸棚に仕舞ってあるからだ。

 そして、その戸棚は死後に開く。

 

 だが、それだけでは済まない。

 悪意や自身の欲心から不全を為した者には、別の災いが降りかかる。

 これは生きている間に起きることだ。身近な者に祟りが及び、親や子が病気になる。孫が事故に遭う。櫛歯を欠くように身近な者が減っていく。本人は概ね最後の方だ。

 これが始まると、殆どの場合は止められなくなる。祈祷によって鎮まる場合があるが、あまり多くない。失敗すると、祈祷師も含めてこの世からいなくなるから、失敗例は記録に残らない。

 怖いのは、これが起きるのは犯した罪の軽重には関わりないということだ。

 あの世には軽犯罪と重犯罪の区別がない。悪意や欺瞞を抱いたりすれば、それだけで重罪だ。

 有罪になれば、生きている者で言う「死刑相当」の扱いになる。

 この辺が、「あの世は本質的には怖ろしいものではないが、対応を過つとはるかに怖ろしいことになる」と記して来た点だ。

 「あんなヤツ。死ねばいいのに」と考えると、「殺した」ことと同じになるから、かなり厄介だ。

 ま、さすがに「考えた」だけなら、永遠に呪縛から解放されぬことも無いとは思う。いずれ暗闇から解き放たれるだろうが、それもその者による。

 

 前置きが長くなったが、もし「アモンが聞き届けた」となると、この後、コソ泥の周囲にいる親族や関係者に類が及ぶ可能性がある。酷い時には単なる「知人の子ども」まで達することがある。

 親や子が突然、バタバタと連続して倒れる。孫がいなくなる。

 誰のせいでもなく、悪事を働く当人のせいなのだが、巻き添えを食らう子どもらは可哀想だ。

 本人は疑いなく、死後に「闇の呪縛」が待っている筈だが、子や孫は何故死なねばならなかったかが分からないから、何時までも呪縛から解放されず、長く幽霊のままでいることになる。

 

 「孫まで数十人に及ぶのでは、巻き添えを食らった者が気の毒だ」

 そう思ったので、この日は神社でそれを解いてやろうと考えた。

 よって、神殿に至る途中で祈願を始めた。実際の内容はこんな具合だ。

 「もし、祟りが子や孫に降りかかるのであれば、ちと可哀想です。どうかアモンが出動しないように計らって下さい。その代わり、当人のところには、先日、日高や秩父で拾った悪縁を差し向けます。当人に災いが生じるわけですが、それは因果応報で当たり前です。子や孫には罪は無いので助けてやってください」

 今はコソ泥にふさわしい格好の者たちが私の傍にいる。

 

 折り返し、自分の後ろに語る。

 「このまま進み、神殿の先数十メートルまで行くと、そこで自分の呪縛を解き放つことが出来る。だが、もしそれを望まず、この世に留まりたいのであれば、私の仲間になれ。この世に正義の鉄槌を振り下ろすのは楽しいぞ」

 きちんとお務めを欠かさぬ寺社や神社では、参拝参詣客が数多く集まる。

 皆が同じ道筋を辿り、同じように願を掛けるから、その念によって「気の流れ」のようなものが形成される。これが推進力となり、幽界から霊界に向かうルートが出来ている。

 この流れに沿って進むことが出来るようなら、自我を償却できるわけだが、欲や悪意に囚われたものはそれが出来ない。この世に重なる幽界に長く留まることになる。

 

 自分について来た悪縁(霊)に対し、「仲間になれ」と言ったのはこれが初めてだ。

 だが、罪のない子や孫に累を及ぼさぬためには、これしか方法はない。

 ま、当人については「身から出た錆」だ。それくらいは覚悟して貰わぬと。

 

 拝礼の後、ぎりぎり間に合ったので、社務所に立ち寄り、交通安全のお守りを拝領した。

 これまでも付けていたのだが、この数日のうちにどういうわけか車の窓から消えていたのだ。

 なお、お守り自体は「木と紙」なのだが、貰った当人が「心から信じる」ことで力(抑止力)が生まれる。信じぬ者には、ただの木と紙のままだ。

 

 さて、オークショナーには、昨夜、次のように連絡して置いた。

 「この人は確信犯で概ね常習だから、理由の分からぬ返品には気を付ける必要がある」

 「『返品物を違える人がいるので気を付けてください』などと時々、誌面で告知する必要がある」

 「もちろん、『間違い』ではなく『すり替え』なのだが、これはれっきとした犯罪なので、証拠が上がれば警察案件になる。私も証拠を保管しておくので、同様の者が複数いるようなら届け出る」

 ホルダーごと取り換えるというずさんな手法なので、恐らく指紋が残っている。画像と指紋があれば、証拠として十分だ。

 「すり替えを行った者の情報提供は不要。今の段階で個人情報を流すとそちらに問題が生じることがある」

 ちなみに、犯罪被害として届け出るには、数か月後だろうが半年後だろうが、時効が成立していない期間なら、いつでも出来る。窃盗は三年か五年だったと思う。

 「画像(証拠)の所在についてあまり配慮していないので、拓本世代の人だ。よって六十台後半以降の男性。もしくは三十台の事務局関係者に近いところにいる男性なので、そういう人に注意する必要がある」

 

 私自身はもはや何とも思わない。

 具体的にそれが「誰か」を知れば、願を掛けたくなってしまう。念をもって願を掛けるのは、要するに「呪う」ということだ。これは自分に跳ね返るので、なるべく避けたい(「穴ふたつ」)。

 だが、あの世の者に報告するだけなら、願を掛けたわけではないから、これから何かが起きても、私には一切関わりの無い話になる。

 総ては因果応報で、当人の為した業による。

 そもそも、私の持ち物をその者が持ち、その者が手で触った品がここにあるから、間に「線」がある。その「線」を辿って行けるので、「誰か」を知る必要はない。

 こういう時こそ、稲荷神社の近くにいたあの悪縁がちょうど良いと思う。

 悪縁を送ることで、すぐさま当人に具体的な変化が生じるかどうかは分からぬが、死後にはダダっと捕まると思う。やったことよりもかなり重い筈だが、しかし、当事者でもない子や孫を「助ける」ことになる。

 ま、近い将来、当人のお腹に腫瘍が出来る可能性はあると思う。こういうケースでは概ね悪性だ。

 

 以上は、あの世についてあまり知らぬ者が読めば、「ちょっとおかしい人では」と思うような内容だ。

 これは私でもそう思う。実際は「かなりおかしい人」「イッチャッてる人」で、話だけでなく、幾らかは出して見せられる。

 あくまで変人の語るたわごとなのだが、おそらく当人には「笑えぬ事態」が待っている。

 

 追記)神社で祈願をして家に帰ったのだが、玄関を開けようとすると、扉のあちこちから「ガタガタ」と音がした。直感的に「連れ帰った」と分かった。

 「私の仲間になり、正義の鉄槌を下そう」という言葉に反応し、別の者まで後ろについたようだ。

 現実には「正義」ではなく、「因果応報」だ。

 例えば、虚偽の電話を高齢者にかけ、金を騙し取るような詐欺グループなどには、「ニ三十人」に鉄槌を振り下ろすべきだと思う。もちろん、親兄弟や子孫を含めての範囲だ。

 悪行により因果が広範囲に及ぶことを知れば、「犯罪が減る」効果を生む。