日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎怖かったらしい

怖かったらしい

 病棟のベッドに座っていると、看護師長がやって来た。ベッドサイドを見てひと言。

 「あれ?今日はお供えは無いのですか?」

 「ああ。もう終わったから」

 「終わった、と言うと?」

 「巫女さまが来て、『傍に悪いのが来ている』と教えてくれたので打ち払った。しばらくは大丈夫」

 ま、あのしつこさでは、早晩またやって来る。病院で拾ったので、病院に来れば同じことが起きる。

 バーサンはまだ、この世とあの世の中間の世界にいるし。

 それ以外にも寄せて来ているし。

 程なく十月だが、十月十一月は幽霊の季節だ。これを越えると、次のヤマが一月二月になる。

 

 すると、ここで師長が告白した。

 「実はあの写真を見てから、思い出す度に怖ろしい思いがします」

 師長には、前に一発で「これは本物」と分かる幽霊の画像を見せている。医療従事者だから、死人には慣れていると思ったのだ。

 しかし、やっぱり人間相手とは勝手が違うらしい。

 

 「私のやるのを見てるだろ。そのトーリに真似すればいいんだよ」

 水や酒を備えたり、ご供養をしたり。

 咄嗟の時には、鈴(りん)を鳴らす。音がきれいになるまで柏手を打つ。

 「私の言う通りにすれば、一瞬でいなくなるから、安心して」

 

 昨日、心臓の主治医が「大丈夫ですから安心してください」と言うのを聞き、私は随分と気が楽になった。

 「まかせて置け」と言われるだけで、何となく安心するものだ。

 状況にもよるが、ささいな異変なら、これで気が楽になる。

 気が楽になると、悪縁は自ら去って行く。たぶん、とっかかりが掴めなくなるからだ。 

 

 そこで、鍵束に鈴(すず)を付けるのは、「落とした時に音で分かる」ようにするためだけではないことを話した。金属音の「キーン」とか「カーン」という音を幽霊は嫌う。

 よって、厄払いの意味もあるわけだ。

 そこで、「何となく薄気味悪い」「理由なく怖くなった」程度の時は、「チンチン」と鈴を鳴らすだけで、心が晴れる。

 「これでもう大丈夫だ」と思うことが大切で、安心すると寄り付かれにくくなる。

 

 悪縁の自我を成り立たせているのは「悪意」で、人に寄り付く時にも、人の持つ悪意が「とっかかり」になる。

 穏やかな心でいて、冷静に考えることを心がければ、悪縁は寄り付かない。

 「善意」が助けるのは、自分自身の心だ。

 

 師長が去ると、隣の女性患者が話し掛けて来た(アラ四十歳)。

 このところの私と師長の会話を聞いていたらしい。

 「そういうことは本当にあるんですか?」

 「俺のはただの話だけじゃないからね。見ればすぐに理解できると思うが、それなりの覚悟がいる。一度入ったら、引き返せないもの」

 実際、師長は「本物」の画像をチラ見しただけだが、そのイメージが頭から離れてくれないらしい。

 すると、隣の女性は「よく考えてみます」と答えた。

 

 ま、それほど重くないものを見せればいいわけだが、それでは世間の「怪奇現象」話や「心霊ナントカ」話と同じになってしまう。

 一枚で「たまたま」でも「気のせい」でもないのを見る方が、分かりが早い。

 もちろん、その後は「現実の一端」になるから、世界観や人生観を変えて行く必要が生じる。と言うより、否応なしに変わる。

 簡単に言えば、じきに「後ろをついて来るバーサン」の気配を感じ、足音を聞くかもしれん。

 

 好奇心が先に立っているから、あれこれ見せない方がよいケースだと思う。

 興味本意に立ち入ったり、あるいは、恐怖心に強く影響されたり、逆に「たかを括っている」者には教えない方が無難だ。

 後者だと「障り」が起きる場合があるわけだが、いざ始まったら、助けられぬし、助けない。

 自らの心が招いたものは自らで解決するしか道はない。

 

 死者に敬意を払わぬ者には相応の報いが来る。多くは死んだ後に来るが、まれに生きているうちに起きることがある。

 それも因果応報。(ここはアモン流だ。)

 きちんと学び、修行をすれば、いずれ巫女さまみたいな者が来てくれる。己の「境遇」を救うのは己しかいないわけだが、「あの世仲間」は「心」を救ってくれる。

 

 もちろん、簡単ではない。

 先ほど、まだ階段の灯りが消えた。

 やっぱり、「おめー。悪戯は止めろと言っただろ」と言い付けると、パッと点く。

 ま、明日は免許の更新だが、その帰りに少し高級なLED電灯を買って来ようと思う。