◎また小鬼が出て物を隠す
少し前に、循環器の検診に行ったのだが、その時に私の主治医に、「死後の存在を信じるか?」と訊いてみた。
要は「幽霊がいると思うか」という質問だ。
その医師は私の命の恩人で、かつきちんとした科学者で、理路整然とした考え方をする。
私は時々、医師の勧めには従わぬのだが、これは直感が示すことを信じるためだ。
この一二年は頻繁に心臓や動脈への施術を勧められたが、私の不調の原因は病気よりも障りの方が大きいと思う。このため、施術の勧めは総て断って来た。
この日も動脈のカテーテル治療の話になったのだが、いよいよ「障り」について言及せざるを得なくなったので、「つかぬ話ですが」と申し出たのだ。
この時、私の主治医の答えは、想像とは少し違っていた。
「自分では見たことが無いのですが、あると思います」
なるほど。世の中の科学者は、オーツキ教授みたいな人ばかりではないらしい。
幽霊がいるかどうかは、主体的に眺めると、「人間の自我は死後も存在し続けるかどうか」、あるいは言葉を替えれば「あの世があるかどうか」という捉え方になる。
ああ良かった。
そこで私は医師にこういう説明をした。
「私にはあの世の存在は、信じるとか信じないという次元の話ではなく、現実そのものです。幽霊を頻繁に見るし、写真を撮影すると写り込んで来ます。そういう者たちを観察していると、自分の状況が見える。今の不具合は身体の問題ではなく、あの世の者が関わっていると思います。それなら、まずこの影響を押さえてみて、影響が小さくなった時に治療を受けるかどうかを決めようと思います」
医師もさぞ当惑しただろうと思う。この患者は「イカレている」のかと思ったに違いない。
そのことは想定していたので、この日は画像を幾つか持参していた。
「一発で納得するような画像がありますが、ご覧になりますか?」
鞄から写真を出そうとすると、医師はすぐにそれを制止した。
「いや、結構です。ではしばらく様子を見ましょう」
診察室は天井が繋がっていて、会話が隣に響くことがある。
たまたまこの時は、この話を隣の部屋の人も聞いていたらしい。
診察室を出て、会計に向かう途中で、知らぬ看護師から声を掛けられた。
「写真を撮られるという話ですが、どういう風に撮るのですか」
「TPOがありますのでそれに適合した時に、出やすい場所に行き撮影します。それでも写らないことの方が多いのですが、環境を整えると、あるタイミングで画像に残ります」
「たまたま写り込んだ」のではなく、「こうすれば写るだろう」と考え、撮りに行って、実際に写ることがある。極めて合理的な展開だ。
要は、あの世現象は「追検証に耐えうる事象」だということで、これはすなわち経験的事実だということの一端を示す。
それなら、あの世を怖れる必要は全くない。科学力で追究して行ける。
このスタンスが私の考えだ。
あの世は「信じるか否や」という対象ではない。現実の一端だ。
さて、以上は前置きだ。
幽霊は肉体を持たぬ自我(自意識)の一形態だから、合理的な存在だ。
だが、鬼とか妖怪はどうか。
さすがにとても信じられない。人のかたちからかけ離れており、たぶん、人の想像の産物だろう。あるいは想像の産物でしかない。
私もこう思っていた。あれこれと人間離れした存在の姿を見るまでは、だが。
画像は幽霊とは思えぬ。人間の姿から離れており、妖怪や小鬼としか表現できない。
この手の異形の者が現れ始めたのは、令和元年からだ。
この年は、私が「亡者の群れ(百鬼夜行)」に追い付かれた年で、以後は普通に怪異現象が起きるようになった。
この小鬼は、ガラスの前にいる参拝客ではなく、たぶん、私に由来する者で、「亡者の群れ」の内の一匹だと思う。
私の身の回りでは、時々、物が消える。
病棟では看護師の見ている前で止血バンドが消えたり、イヤホンがベッドの真下に隠されたりした。
机の上に置いており、まったく動かしていない物が無くなる。
コイン収集が趣味で、絵には沢山のコインがあるのだが、そのうちの何枚かはある日忽然と消えてしまう。
今日も専用机の上に置いていた高額なコインが忽然と姿を消した。
これまでのケースでは、割と近くに隠されていることが多い。
たぶん、部屋の隅にある雑銭箱の中などに放り込んであると思う。何千枚もあるし、もはや眼疾で判別が出来ぬから、いずれ誰かが雑銭の中から希少品を拾うことになると思う。
ちなみに、認知症の影響ではない。そのために専用机をセットしてあった。
注記)眼疾があり文字がよく見えない。誤表記を直せぬので、そのように了解のこと。