日刊早坂ノボル新聞

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◎「狭山異世界事件」の現場検証 (その1)

◎「狭山異世界事件」の現場検証 (その1)

 幾らかリスクがあるのだが、地元の者が真っ向から扱う分には、単純な「肝試し的な好奇心に基づく物見遊山」には当たらないと思う。

 とりわけ、この十年は、自身の死が近くなって来たこともあり、「死後の存在」について検証を進めている。

 事前の推定では、この件は「この世とあの世の中間界」の問題領域だと思われる。

 詳述をここでは避けるが、「幽界」では「思い描いた心象」が現実として降り掛かるという側面がある。幽霊は自身の思い描いた世界の中で暮らしているが、その幽霊自身の目から見ると、自分が感じたこと、想像したものが現実として現れる。よって、幽霊間では、実際には接点が乏しく、自身に似た性向を持つ者だけを認識出来るようだ(以下省略)。

 

 現実論としては「検証」するのは難しい。霊的現象を認識出来るのは、1パーセントにも満たぬ割合だし、一方で、幾らか可視域・可聴域が広く、見やすく聞こえやすい素質を持つ者は、多く「霊能力」だとかいう幻想に脳を侵されていることが多い。

 幽界・霊界は「人に害をなす怖ろしい存在」などではなく、生けるもの総ての行く末であり、必然だ。ひとは死ねば、必ず幽霊になるし、そこを通過して初めて自我を分解できる。要は「ただの通過点」であるということだ。

 ひとには善人も悪人もいるが、それと同じで幽霊にも色んな者がいるというだけ。

 

 生きている人間の中で、「幽霊と関わりやすいのは1㌫以下」だと記したが、注意が必要なのは、私がその1㌫以下の仲間だということだ。

 現に一昨年には、私にとって禁足地である稲荷の領域にうっかり踏み込んでしまったために、眷属の怒りをかって、八か月の間、「障り」に苦しんだ。その間、どんどん痩せて行き、ひと月に五キロ体重が落ちた月もある。(合計で十二キロほど痩せた。)

 これを「稲荷の障り」だと最終的に判断したのは、「悪縁(霊)の声を直接聞いた」ことによる。このブログに逐一記したが、スマホが勝手に話し出し、しわがれた男の声で呪いの言葉を吐いた。なお、音声認識のガイドに「しわがれた男の声」はないそうだ。

 こういうことは、滅多に起きないのだが、起きる者には普通に起きる。

 科学的思考の基盤となるのは、「同じ原因があれば、同じ結果が起きる」ことを前提とするが、今のところ、それはこの領域では当て嵌まらない。

 九十九のケースで起きたことが、最後のひとつでは起きなかったりする。
(おそらくは、「ルールそのものが違う」のだろう。)

 要は殆どの人にとって何でもないことが、ある者にだけ決まりが発動する場合があるということだ。

 

 こういったことに注意が必要なので、まずは外堀を埋めるように検証を進めることにした。

 目下の焦点は「穴があるかどうか」ということになる。

 継続してこのブログを読んでいる読者なら分かると思うが、「穴」はこの世とあの世の交流点であり、幽霊を認識しやすい場所になる。なお「スポット」とは意味が違うので念の為。

 普段の生活の中で幽霊の存在を認識するには、光や湿度などのTPOが限られた場合に留まるが、「穴」ではそれが広がり、数割の人が異変を感じる。「1㌫以下」が「数割」まで割合が高まる。

 そして半年から二年くらいで、場所を移したり、消滅したりする。

 これは、その地にまつわる因縁とは、まったく関係がない。

 「過去に何かがあったから」というレトリックは、そもそも通用しない。

 

 前置きが長くなったが、要は「面白半分ではない」ことを示すためだ。

 好奇心から「心霊スポット探検」に行った者についての「その後」が報告される例は少ないが、それもその筈で「重大な異変」が起きた時には、それを報告できる者が居なくなっている。まず最初に言うべきことは、「やめとけ」ということ。

 これまで発動しなくとも、この回には障りが発動するかもしれぬ。私はこれまでの経験があったから、何とか連れ去られずに済んだが、貴方にそれが出来るのか。

 悪縁に捕まった時には、助けてくれる者が誰もいない。

 以上は老婆心による忠告だ。

 

 さて、今後は同心円状に外から中へと観察を進めて行くことにした。

 当家から僅か数分のところなのに、眺める側の意識が変われば、見方、見え方も変わる。

 まずは車に乗り、改めて外周を回ることから始めることにした。

 目安は中学校で、これを起点に北東側の森林の中に、この事件の投稿者の記した地点がある。子どもたちがこの中学校に通っていたので、この周囲のことには通じており、この森についても、中央を横断する道を幾度か通ったことがある。

 地図ではきちんと道が記されているが、実際には農道で、車一台がやっと通れる幅しかない。途中の畑の間は、私道ではないかと思われ、ここを通るのは農家の人しかいないと思う。

 中学校の傍に行くと、森の入り口に看板がかけてあり、それには「自然観察園」と記してあった。学校の傍でもあり、生徒たちが森林の中に入り、動植物を観察できるようになっているのだろう。殆どの者にとって、この地は自然と親しむことの出来る良い契機になる筈だ。その意味では何の問題も無い。

 もちろん、それも「ごく一部の者を除く話」で、私もたぶん、その「ごく一部」に属する。よって今回はここまでだ。

 意識のある無しも関係があるようで、意識せず単に通過する分には何も起きぬが、意識し、注意を払うことで先方にもその緊張感が伝わる。

 中学校の脇を通り過ぎる時に、私は早速、腹痛を覚えた。

 「これは筋膜種の痛みだ」

 この痛みは、かつての持病だった胆嚢・脾臓の筋膜種のもので、御堂観音参拝の前に苦しめられていた。

 ちょっとタイミングが良すぎるので、まずはこの場所をすぐに離れることにし、その際、いつも通りの祈願をした。

 「わたしには貴方の持ち分を侵すつもりはありません。すぐに立ち去りますので怒りをお鎮め下さい」

 想像した通り、数分後には腹痛がさっと消えた。

 おいおい。ここには何かあるぞ。

 こいつは稲荷神社の境内に足を踏み入れた時と同じ反応だ。数年前に東伏見の稲荷の鳥居の前を通りかかった時などは、急激な腹痛に足が震えた。

 急いでその場を離れ、駅に着く頃には腹痛が治っていたが、その間、頭の中では何十人もの声で何やら喚く声が聞こえていたのだった。

 稲荷だけは本当にダメだ。

 

 こういうのは典型的な「警告」だと思う。

 恐らくは、先方には物見遊山でスポットを訪れる者と同じように映ったのだろう。

 それならそれで、事前にお祓いをしてから許可を得る姿勢が重要だ。

 

 ちなみに、この事件の投稿者は「学校跡がある」と記していたが、森林観察の場所なら研究施設があっても不思議ではない。

 次はお伺いを立ててから、中に入ろうと思うが、場合によっては99㌫の者に代行を頼んだ方がよいかもしれん。

 

 投稿者が見たものは、現場の状況とはたぶん合わないと思う。

 だが、それは「存在しない」こととは違う。殆どの者が「検知出来ない」性質のものである可能性はある。

 幽界と現実界の間には中間的なゾーンがあり、その特徴は「思い描いた心的イメージがそのまま現実として現れる」というものだ。

 その世界に囚われぬように、そこで起きることを観察することで、幽界をよりよく把握することが出来るかもしれぬ。

 以下は「穴」の実例だ。

 七年前くらいには「宿谷の滝」にこれがあり、数々の異変が起きた。

 「誰もいない筈なのに、人の声が聞こえる」

 「煙玉や人影が画像に写る」

 具体的には、入り口を六十㍍ほど入った左手にそれがあり、時々、観光客の連れた犬がその方向に向かって激しく吠えていた。犬はそこに「何かがいる」と思ったらしい。

 この画像を撮影した時には、子どもの姿が写ったので着目したのだが、水の中に女性の目も出ていた。その後、子どもの姿は消えていたが、今見ると、別の位置にぼんやりとシルエットが見えている。ちなみに、当初とは別の場所だ。

 こういう画像は時間の経過と共に変化するが、今では「女の目」や「子ども」の姿はかなり薄くなった。

 一年間くらいで、この地の「穴」は消え、今はたぶん異変が起きないと思う。

 この後では、鎌北湖や、有馬ダムにも「穴」が出来たことがあるが、やはり一年から二年くらいで姿を消した。(続く)

 

注記)眼疾があり、総てブラインドタッチ。推敲も校正もしません(できない)。不首尾は多々あると思います。