日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎言葉で語るより見せた方が早い

言葉で語るより見せた方が早い

 普段の暮らしの中で「あの世」の話をすることは無いのだが、例外がいくらかいる。

 私と同じように、「あの世」に悩まされているが、それと気付いていない者だ。

 身近なところでは、は病棟にいる看護師の一人がそうだ。

 

 昨年、病棟にいる折に、その看護師の背中に「お婆さん」が貼り付いているのを目視する機会があった。以後、その出来事には触れずに、「こうすればよくなる」と助言している。

 ・十分に日光にあたること

 ・気分がすぐれぬ時は、枕元にコップ一杯の水を置いて眠ること

 みたいな、ごく簡単な話だ。

 

 私と同じで、その看護師もぞろぞろと別の者を引連れて歩いている。

 その看護師は相当、「引き」が強いらしく、肩に手が掛かっているのが見えてしまうこともある。

 その状態では、時々、「悪縁切り」をしないと、体の調子が悪くなる。

 もちろん、いつも書く通り、こういうのは想像であり妄想に過ぎない。

 

 最近、その看護師が急病になり、二週間ほど仕事を休んだ。

 原因はよく分からぬが、ある日突然、起きられなくなったらしい。

 その看護師は二十台の末だから、おそらく、そろそろ本格的に働き掛けが始まると思う。

 放置すると、周囲が煩くて堪らない。

 

 年末からそのことをその看護師に伝えるべきか、かなり思案した。

 逆の立場だったとして、私がいきなり他人にそんな話をされたら、「コイツ。頭がおかしいのか」と思ってしまう。

 自称「霊感の強いひと」や「霊能者」の話にはウンザリ。

 いつも「あの世」に関わる話を書く、その当人が「アホか」と思うのだから、普段あまり考えぬ人であれば余計にそう思うと思う。

 そんなわけで、暫く逡巡していたのだが、やはり伝えることにした。

 現状で「いつも体が重いか」と訊くと、やはり「そうだ」と答える。

 

 「玄関に鈴を置いて、家に入る時に必ずチリンを鳴らす習慣をつけると、体のだるさが少し小さくなる」

 もちろん、話を聞くだけでは誰もやらないので、人の肩に手が載っている画像を見せた。ちなみにこの場合の「人」とは私のことだ。私自身についても、他人には見せぬ類の画像を持っている。(もちろん、短期間のうちに廃棄する。)

 画像の中の当事者が平気な顔をしていれば、「怖ろしさ」が先に立つことは無くなる。

 いきなり写真を出せば、そこで嫌われるかもしれなかったが、しかし、来月に私が生きているかどうかは不透明だ。次に説明できる機会は無い。

 「貴女は私と同じタイプだから、幾つか覚えるべきことがあるんだよ」

 

 もうひとつ重要なことは、その看護師には数年後に生死が懸かるような事態が待っているということだ。おそらく私に起きたことと同じようなことが起きて行く。

 私にはっきりした異変が起き始めるのは、三十を過ぎた頃からだった。

 それまでも起きていたようだが、若い時には関心が外に向いているから、あまり自覚していなかった。

 

 悪縁が寄り付くのは、ゆっくりと、自身がそれと悟られぬように、徐々に近づく。

 だが、いくつかの手続きを忘れぬことで、簡単に下ろせる。

 お経や祝詞真言、僧侶や神職の助けも不要。

 私はそのことが分からず、お経を読んだり、ひたすら九字を切ったりしていた。

 心持を替え、小さな手続きを忘れぬことで、状況ががらっと変わる。

 相手の所在が分かったなら、自分の言葉で語り掛ければよい。

 

 最近、面白いと思ったのは、「あの世(幽界)」は合理的には出来ていないということだ。

 「因果」を考え、原因と結果を結び付けようとするのは、あくまで「この世」の者の発想だ。

 かたや「あの世」は合緒的に出来ている。この場合の「緒」は「情緒」の緒だ。

 

 叔母によると郷里には割と有名な祈祷師がいるらしい。

 地元の人が何かしら暮らしの中で「差し障り」を感じた時には、その祈祷師の所に行き、助言を貰うようだ。その祈祷師の助言通りにお供えをしたりお祓いをしたりすると、その「障り」がすぐに無くなるということだ。

 多くの祈祷師や霊能者(本物の)は、「ここにこういう霊がいて」という類の説明をするが、別の祈祷師に同じものを見せ、見解を聞くと、まったく別の話をしたりする。

 霊感は基本的に単なる「想像や妄想」なのだから、それも当たり前だ。

 だが、見ているものは違っていても、「(霊)気が滞っている」状況に対し、何らかの手立てを打つことで、同じように差し障りが無くなったりする。

 因果そのものは解消できるものではないから、幽霊であればその心を癒し、地の神山の神であれば、怒りを鎮めるための祈りを捧げることで、物ごとがスムーズに流れ出す。

 

 これは例え話をすれば分かりよい。

 先が見えぬ塀の向こう側にボールを投げたとする。

 塀の向こうに何があるかは詳細には分からぬが、こちら側と似たようなものがあるだろう。道があったり、野原があったりと、人の暮らしにはある程度の共通点がある。

 幾度か投じているうちに、投げたボールがたまたま人に当たったりする。

 第三者の中には、そのことを見て、「前が見えぬのに、向こうにいる人に当てるとは、凄まじい能力の持ち主だ」と思う人もいる。

 これが「予言」や「霊感・第六感」の本質だ。

 最初にボールを投じた者は、何かを見て狙って投げたわけではない。

 分かるのは「この辺にあるかもしれない」「いるかもしれない」ということだけだ。

 要するに、結果的に向こう側の人に当たったかどうかとは関わりなく、ボールは「想像や妄想」を基に投じられている。

 当たった・外れたとは関わりなく、想像は想像に過ぎぬということだ。

 「予言」や「霊視」も、出発点が「想像や妄想」であるなら、当たったかどうかには関わりなく、どこまで行っても「想像や妄想」だということになる。

 

 だが、塀の向こう側で何が起きているかは分からずとも、「誰かが怒っている」気配があったり、「車の窓ガラスが割れる音が聞こえ」たりすることで、何かしら向こう側で「問題が生じている」と知ることが出来る。

 そんな時にすべきことは、「何故ボールが当たったのか」「誰にどういう風に当たったのか」を確かめることではなく、まずは「すいませんでしたと謝る」ことだ。

 塀の向こう側の相手は、もちろん怒っている。

 物陰からボールを投げつけられれば、どんな者でも腹を立てるからだ。

 

 「あの世」に関わる領域では、その怒っている相手を「恐ろしいもの」だと認識し、お経を詠んだり、祝詞真言を唱えたりすることで、相手を遠ざけようとした。

 だが、そのこと自体が根本的な誤りを冒している。

 相手が「怒っている」のは心情的な理由がある。

 けして怖ろしい存在だからではない。

 「あの世」に向き合うための対処法のひとつとして、私が必ず最初に「怖れぬこと」を上げるのは、こういう理由だ。

 「怖れぬ」とは「強がる」ことではなく、「けして怖ろしい存在ではないと知ること」だ。