日刊早坂ノボル新聞

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◎謎が解ける

◎謎が解ける

 昨日の状況について、どうしても違和感が取れぬので、きちんと検証してみた。

 何せ、消化器の内容物を全部吐き出すほどの症状の後の自覚症状だ。

 違和感のあるのは、やはり最初の画像だ。

 いつもそうだが、その場所に着いて、最初に撮影した画像に異変が現れることが多い。

 おそらく構える暇も、隠れる暇もないからなのだろう。

 

 違和感の正体は簡単に分かった。

 左腕が一本余計にあるのだ。腕と手の位置を結んで行くと、前のガラス映像、後ろのガラス映像の他に角度の違う腕が一本余計に出ている。

 これがちょうど私の背後から腕を回したように見える。

 このこと一つだけなら、見間違いのケースもあるのだが、他にもファインダの「眼」や、肌色の長細い蛇状の何かなど、印象の良くないものが映っている。

 こういう視角的異変より前に、私自身の身体症状が「障り」の所在を示している。

 見た目の印象ではなく自覚症状だ。

 

 さて、もっとも配慮すべきは「蛇」だ。

 この日の「気」の流れに沿っていることもあり、たまたま私がそこに立ったので、それが影響して写り込んだ場合もあるが、悪縁の寄り憑きや、呪詛に関わっている場合など、様々なかたちの不都合があったりする。

 そこで、ひとまず粗塩を焼き、三方に置いて様子を見ることにした。

 

 幽霊の寄り憑きの方は、それと認識し、線を引き、その線から立ち入られぬようにすれば、別に問題は無い。

 普通の人でも頻繁に起きているし、多くは気分転換だけで済む。

 私のようにとりわけ影響を受けやすい者は、少し余分に気を付け、溜まったらすぐに祓い落すようにしないと、体調が覿面に落ちる。

 

 霊感教会のO先生は、私のことを一瞥してそういう宿縁を持つ者(神霊体)だと見取り、「早く修行に入らねばならなかったし、そうすれば他の人を助けられた。(この後も)また、助けられる」と言っていた。

 生憎、私には信仰の道で生きるつもりも無ければ、他者を助けるなどというおこがましい気持ちも無い。

 今は仕方なくあの世を観察しているが、私のような状況の者は他にも必ずいる筈で、自分自身がそういう性質の者だと知らされねば、たぶん、早死にする筈だ。

 実際、はっきりと分からぬことの方が多いから、リスクを避けるために先んじて手を打つことになる。他の人から見ると遠回りをするし、余計なエネルギーを消費する。

 だが、他の者は死なぬが、過敏な者は、放置すると命に係わるから、選択の余地はない。

 少しでも身に覚えがある者は、疑ってかかるべきだ。

 人生に絶望し、総てを放棄したくなるのは、「あなた自身の考えではない」ことを知るべきだ。多くは他の者が吹き込んでいる。

 瞼を開き、耳を欹てれば、自分の状態が見えるから、よりよく己を観察して立ち位置を確認すると良い。

 あの世と接点を持ちやすいのは「業」であって、利点は何一つない。多くがそれを隠して暮らしている。そういう若者に私が協力を惜しまぬのは言うまでもない。

 いつも「霊能力」や「霊能者」を否定するのは、その言葉のニュアンスに自慢げな部分があるからで、もしそうなら身の程を知らぬ愚か者だと思う。あの世と関わることは、障りを引き込む方がはるかに多い。祈祷師、霊媒、占い師の最期は障りに負けるか、他人に恨まれて死ぬ。それ等一切の業を背負うということだ。

 それを知らぬのでは、所詮はたかが知れているということ。

 興味本位の者には逆に悪縁を渡したくなるので、眼に見える障りを感じぬ者は占い師や祈祷師、霊能者のところへ行くことだ。たぶん、神さまや守護霊さまから聞いた話をしてくれる。それで心の晴れる人もいる。たまに修行の成果で念力に長けた者がいて、失せ物を探してくれたり、障りの原因を指摘してくれたりするから、それなりに役に立つということ。だが、幾らか助言を聞いても信用するな。あくまで「その程度」の者だ。中には「神の使い」を自称するものまでいるから笑える。

 そういう者は、よくあの世や霊を語るが、しかし、一度でも自分で出して見せてくれたことがあるか?

 言葉通りのものを実際に出して見せた者は、これまで一人もいない。ただ、想像や妄想を語るだけ。心霊写真すら自分では撮れぬ。

 霊感など、ただの想像や妄想に過ぎぬのだ。

 霊能者や占い師が今生の人生や死後を整えてくれるわけではない。総ては己自身の責だが、何でもかんでもすがりつくことをしなければ、役に立つ面もある。

 

 だが、私や私の同類の者は、そういう次元では暮らしていない。

 毎日、怒涛の如く寄り憑いて来るので、物知り顔のカウンセリングを聞いている暇はない。常在戦場。

 幽霊の隊列が自分の後ろについて来るようになれば、そこで初めてことの事態が理解できるようになると思う。

 

追記1)「女」は自分の所在を誇示する面があり、「もう一本の左腕」には銀色の腕輪か時計のようなものを巻いている。私は金属アレルギーで、その手の物を身に着けぬから、今回、「これは自分の腕ではない」と気付いた。

 

追記2)さらに調べると、集っている女はひとつやふたつではなさそうで、状況は絶望的だ。ちょっと酷い状況で、よく生きていられる。唯一の望みは、銀の腕輪をした腕が「白衣の巫女」さまのものである時だけのよう。

 もし巫女さまであれば、現状は「支えて貰っている」ということだ。