日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎いつも同じ夢を観る  :「白衣の巫女」

いつも同じ夢を観る  :「白衣の巫女」

 物心がついた頃から、繰り返し同じ夢を観る。

 「亡者の群れに後を尾(つ)けられる」

  「深夜、家の前を葬列が通る」

 「トラックに撥ねられる」

 など幾つかあるのだが、「信者を引き連れて山中で修行をする」夢もそのひとつだ。

一年に五六回は必ず観るので、もはや数百回は観ている。

 まるで今目の前で起きていると錯覚するほどなので、イメージが鮮烈だ。このため、前に『夢幻行』をまとめた時に、「霧の中」という短編の中にその様子を取り入れた。

 ちなみに、他人の夢の話などは、当人以外には意味や示唆に乏しいので、この本はまったく売れなかった。続き三巻分の原稿があったが、宙に浮いたままだ。

 

 さて、内容はこんな具合になる。

 山中に修験道場があり、私はそこの施主だ。

 見えるところにいる修験者、信者はざっと一千数百人くらい。

 神理を知るために修行をしているが、宗教弾圧を受ける。

 信者が多数殺されたので、さらに山中に逃れ流浪する。

 

 これを何かストーリーがあるわけでもなく、ドキュメンタリーみたいに起きた出来事を淡々と映し出す。そんな夢だ。

 この夢については、長い間、私自身が夢の中の女施主だと思って来たのだが、数年前から考えが改まった。

 私の背後には、白い法衣を着た巫女が立っていることが多く、それが時々、写真にも残る。

 この場合、たぶん、この巫女は私とは異なる人格だ。

 ちなみに、別々に見え、各々が独立した存在のようでも、実際には同じ自我から分離した者だったりするから、あの世はやっかいだ。

 繰返し夢に観て、情景の断片から、この巫女がどういうプロフィールだったかを推測すると、こんな具合になる。

・中世の末期には修行の道に入っていた。親も山伏(修験者)だった。 

・霊力(法力)が強く、ものごとを見通したり、病気によっては患部を触るだけで治すことが出来たりした。

・奥州の五霊山で修行をしたことがある。私は姫神山の麓で育ったが、必ずしもこの山ではないようだ。

・最後は為政者によって殺された。周囲から火を掛けられて焼け死んだようだ。 

 

 こういう生き方をしたので、死後も強固な自我を保っている。生前と同じように、死者が寄り集まって来るので、それを統制している。放置すると悪縁に変じ、この世あの世に祟りを為すので、自らも幽界に留まり先導の務めを担っているということだ。

 

 折に触れて記して来たが、五六年前に二戸から南下する途中で、持病の筋膜種が痛み出し、往生したことがあった。その時に、たまたま御堂観音の前を通ったのだが、そこで女性の声で、「ここにお参りをして、泉の水を飲めば治るよ」と言われた。

 腹痛が酷く休憩したかったので、神社下の駐車場に車を入れた。

 参拝し、ゆはずの泉の水を飲むと、つい数分前まで呻くほどだった痛みが消えた。

 その夜には酷い下痢をしたが、その後、ひと月かふた月で、脾臓、胆嚢の筋膜種が完全消失した。

 ただ、泉の水が万能というわけではないようで、「肝腎(心臓と腎臓)はここでは治せない」と、夢の中で言われた。(そもそも、「それを飲めば治る」という性質のものではないので、念のため。「薬」ではないということ。)

 境内で撮影した画像には、女性の顔が出ていたのだが、これは後に、「かつて矢巾に住んでおり、参拝に来て急病で亡くなった女性」だった。私の背中に乗っていたが、その地で降りた。

 以上のことは同時進行的にブログにも記したが、最初に「ここに寄って行くといいよ」と促した者は、境内の女性ではなく、私の巫女さまだったと思う。

 声は少女のようだったが、あれは警戒心を解くためにあのような声色を使ったのだと思う。

 死者の声はどこか悍ましい響きを持つが、そんな声に言われても、怖ろしいと思うだけだったろう。

 白衣の巫女は、そもそもソコソコの病気は祈祷で治せた。

 

 輪廻転生の持つ意味は、同じ魂が姿かたちを変えて生まれ替わるというものではない。

 生きている間は、心と魂は肉体の殻に閉じ込められており、それが自我として統制されているわけだが、死ねば殻が無くなる。殻を持たぬ心と魂は、次第に求心力を失い断片的な感情と記憶に分散する。

 これが成仏で、元の自我が消え去り散り散りの要素に分解されたことで、再編成が可能になり、新しい命の素が出来る。よって、今生きている者は、かつての様々な心の断片の寄せ集めということだ。

 少なくとも、私が持つ自我の一部には、かつて修験者だった時のものが含まれている。

 幾度も繰り返し、真理の追究を志そうとしたが、その都度挫折した。もちろん、それぞれの人生の記憶や感情を部分的に受け継いでいる、と言う意味になる。

 白衣の巫女が私と「かつての自我」を共有する存在なのか、あるいは、単純に修験道を目指す者同士という共感から、接近して来た者なのかは分からない。

 

 幸いなことに、不鮮明ではあっても、「必ず存在している」と見なすだけの根拠はある。

 これが無ければ、私は「ただの狂信者」だったことだろう。

 今生の私は自堕落な生活を送り、修業とは無縁だった。「早くから修行の道に入っていれば、母の病気の進行を遅らせ、苦痛を取り除けた」かもしれぬことには、一抹の後悔を覚える。

 いずれにせよ、はっきりと自覚した限り、この後は、この巫女と「同行二人」だ。

 

追記)「自分にそっくりな人影」

 以下は、今回、画像を取り出す時にたまたま開いた。

 その場に立たねば状況が分かりにくく、また、雨の日のガラス映像なので不鮮明だ。

 雨中と言うこともあり、参拝していたのは私一人だ。

 窓の景色にはまるで二重映りのように私が二人いるわけだが、これはガラス戸の合わせ目ではなく一枚のガラスの中に二人映っている。要は、もう一人は私ではなく、私に似せた誰かということ。

 シャツが別だし、後ろの男は帽子を被っているように見える。

 周囲にはぐでぐでと寄り憑いているが、従前からこの調子だったらしい。

 もし別の者がこの状態なら、「このまま放置すれば余命は半年以内」と言うと思う。

 「自分の姿に似せた誰か」の到来は、来るべき死の予告で、お迎えの初段階になる。

 これくらいの段階なら、まだ止められる。

 まずは「発見すること」で、次は「きちんとお前のことを見ているぞと警告すること」。後は「自身や家族の信仰に従って、破魔の手立てを打つこと」で、危機を避けられる。信仰心があれば、お守りや破魔の鏡(きちんとお祓いをした鏡)を持つのも良い。気休めにはなる。

 ちなみに、拡大図は私の背後をよく見ると、十分すぎるくらい気持ちの悪い者が見えると思う。「幽界の霧」の中には、あまたの眼があり、でろでろと魑魅魍魎が蠢いている。