日刊早坂ノボル新聞

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◎扉を叩く音(続) 二月二十八日の記録

◎扉を叩く音(続) 二月二十八日の記録

 「深夜、玄関の扉を叩く音が聞こえる」話の続きになる。

 このことを自覚するようになってから、既に十五年以上は経過している。

 夜中の一時から三時の間に、玄関の前に誰かが立ち、拳の横の部分で三度ドアを叩く。「コツコツコツ」のこともあれば「ビンビンビン」に近い音のこともある。

 最初は「受験生が睡眠中に目覚ましの音を聞く」のと同じに、強迫観念によるものかと思っていたが、しかし、この音が聞こえるのは私だけではない。家人や息子にも聞こえる。

 「ノックの主」は二年前くらいに、ドアを叩くのを止めたのだが、それもその筈で、家の中に入って来ていた。私が台所にいると、カウンターの陰に立ち、時々、私のことを盗み見ているのだが、顔を向けずにいると油断するらしく、着物の裾や手の先が見えることがあった。

 今は「白衣の巫女」が近くにいるが、たぶん、その影響で周囲に妙な気配はない。

 

 と、ここまでは二月二十七日までの話だ。

 この日、私の背後に「黒いひと」らしき影が見えたので、今後は状況が変わりそうだ。

 さて、翌二十八日は通院日だったが、帰宅してからもあまり調子がよくなく、横になっていた。夕食の準備などの家事の他は何もせず、ただじっとしていた。

 そのまま気付かぬうちに寝入っていたが、深夜一時過ぎになり目が覚めた。

 ガタガタっと音がする。

 音の出所は庭からで、窓を通してその音が響いていた。

 庭には鉢植や置物が並んでいるから、それに躓いたような音の響きだ。

 最初に頭に浮かんだのは、昨今流行の盗人の類だ。

 中に人がいようがいまいが、構わず押しいるのが今時の強盗だ。

 だが、よく考えずとも、当家には現金もお宝も置いていないし、資産家を思わせるものも無い。

 

 頭脳が働くようになり、そこで「黒いひと」のことを思い出した。

 日常性から逸脱すると、それを受け入れることが出来ず、見えるものが見えず、聞こえていることを否定する。

 多くの人が「あの世」を否定するのは、「死ぬのが怖いから」で、とにかくそれに関わるものを遠ざけようとするからだ。「死ねば終わり」なら、幽霊は存在しない筈で、存在しないものを怖れることほど無意味なことはない筈だ。だが、実態は違う。

 この手のことには慣れている筈の私でもそうで、昨年一年間の「障り」の時には、「それが偶然起きる理由」を探した。現実として受け止められず、逃げ出したいからで、ひたすら目を閉じ、耳を塞ぐ。

 だが、否応なしに「死後の存在」はある。

 これまで多くの信仰(宗教)が語って来たものとはかなり違うが、死後にもある期間自我は残存する。幽霊たちは自分たちの関心に従って、自分なりの「生(霊としての)」を実現しようとしている。

 生きたひとが「死にたくない」と思うのと同じように、幽霊も「滅びたくない」と思っている。自我の根源は五感より生じるものだが、幽霊はそれを再確認するための肉体を持たない。物を考える頭脳も失っている。言わばこころ(感情)だけの存在になっているのだが、再確認出来ないので、次第に自我が薄れて行く。

 この「自我の崩壊」は、言わば二番目の「死」にあたり、最終崩壊になる。その後は断片的な感情に分散してしまい、個としての意識は無くなる。

 これを怖れるので、幽霊は他の幽霊を取り込んだり、生きた人間の心の中に入り込もうとする。

 方法は簡単だ。

 こころ(感情)はある種の「波」で、音が伝わるのと同じように空気を伝わる。

 人間や幽霊はそれぞれが「音叉」のような存在なので、「もし波長が合えば」、音(この場合は感情)がひとつの音叉から別の音叉に伝わる。

 この波長がぴったり合うようになると、感情が同化し、一体化する。

 幽霊が人間に「取り憑く」というのは、こういう現象のことだ。

 この世でもあの世でも、色んな音が響いているわけだが、そのこと自体に問題はない。ごく普通で当たり前に起きていることになる。

 

 殆どの霊現象は以上の視角で説明がつくのだが、しかし、「黒いひと」はどういうものなのかがよく分からない。

 ひとの死に関係しているのは確かで、死にゆく者の周りによく現れる。

 だが、幽霊には必ず付きものの喜怒哀楽の感情といったものがまったく感じられない。

 ま、幽霊は画像では明るく写るのに、黒いひとは闇そのものだから、物質としても成り立ちが別のものなのかもしれぬ。 

 

 もし身の周りに死期の到来を告げる「黒いひと」が寄り憑いているなら、私は短ければ一週間、長ければ数か月の命だ。

 これから毎日、状況を確認して行くが、あの世に関わる観察に進展が見られ、かつ、 

 これまで通りに危機をすり抜けられることを願う。

 

 今日はお寺に行き、少女二人のためにお焼香をする。

 

追記)「白衣の巫女」:私の記録上は「白衣観音」に同じ。

 二十七日撮影の右側の「白衣の巫女」は割とリアルに撮れている。
 柱の陰なので半分隠れているが、着物や袖がはっきり分かる。足の先は無いから、昔気質の幽霊のようだ。
 ちなみに、私は硝子窓を眺めた時に目視で、この女性を時々見る。
 私にとっては仲間のようなものなのに、やっぱり顔がコワいから、他の人が見れば、恐怖に震えると思う。

 もちろん、総てが私個人の妄想であるかもしれぬ。私は特別な能力者でも何でもなく、ごく普通に見間違いもすれば判断ミスも侵す。そして、その「気のせい」や「取り越し苦労」が、この場合はもっとも望ましい事態だと思う。

 ただの「妄想家」や「気の触れた者」ほど幸せなものはない。