◎幽霊がひとに「寄り付く」時のステップ
ひとが死んで最初に移るのが「幽界」で、そこで死者はいわゆる「幽霊」となる。
その状態に留まる期間は、その者によって様々のようだが、自我を解き放った者は次の段階に移る。それが「霊界」で、そこには個はなく、バラバラな感情や記憶の要素に分断される。悩みや苦痛が消滅する一方で、自我が無くなるのだから、ある意味、それは二回目の死と同じことだ。
生きている間、ひとは「五感」によって自我の存在を確認する。だが、肉体が滅ぶと、感覚で自分の存在を確かめることが出来なくなってしまう。感情や記憶だけが頼りだから、時の経過と共に幽霊は次第に消滅に向かう。
自我を失い、完全に消滅してしまうことは誰にとっても恐怖だ。だから、幽霊は何とかして自我の存続を図ろうとする。
その方法が「同化と合体」だ。
自分に似た素質や性向を持つ他の幽霊と合体することで、自我を強くする。
時々、「そこにはいない筈の人影」が画像に残ることがあるが、その人影の中には、他の人影を捕まえようとしている者がいる。これはおそらく、自分の中に取り込むことが目的と考えられる。
幽霊が「同化・合体」を試みるのは、幽霊に対してだけではない。生きている者の心の中にも自分と同じ志向・性癖を持つ者がいるから、その心の中に入り込むことで「自我を永らえる」ことが可能になる。
もし死者であれ生物であれ、その相手との間に接点を見出すことが出来るのなら、幽霊はその相手に近づき、同化を試みる。
これが、一般的に「憑依」と呼ぶものの本質だ。
映画やドラマでは、悪霊がひとに対し「お前を殺してやる」と叫ぶわけだが、現実にはそんなことは滅多に起きない。もし「殺してやる」と思うのなら、それは第三者に対して向けられる。ひとが誰かを「苦しめてやる」「殺してやる」と思う時に、幽霊はその感情に寄り添って、その思いを強化する。
したがって、幽霊が憑依する相手に対し「苦しめてやる」と叫ぶのではなく、その者の「誰かを苦しめたい」と思う「こころ(感情)の中に入り込む」という表現をする方が確からしい。
(もちろん、例外はあるわけだが、構図がかなり違う。これはあくまで基本形だ。)
さて、以上のうち幽霊がひと(生者)に寄り付くパターンが幾つかある。
その主な目的は「同化と合体」であり、「ひとの心に入り込み、同調する」ことに置かれる。
その場合の、まずひとつ目の接近方法は、「相手の周囲にいる者の姿に似せる」(①)というものだ。
相手が目にする・目にしやすい者の姿に似ていれば、その者は心を許しやすい。警戒心を持たなくなる。
そして、二つ目の接近方法は、「その相手本人の姿に似せる」(②)というものになる。
恐らくは最初の①のステップがあり、次に②に進むのだろう。
さて、令和元年は一年を通じ、あの世の者(幽霊)からのアプローチが多かった年だった。
人影の写る画像(いわゆる心霊写真)は何十枚も残っているわけだが、その中にステップ①②に該当するものが幾つかある。
画像自体は、これまで幾度も公開して来たから、既に見慣れてものだが、二年間かかり、意図や目的が見えて来た。
最初の画像はステップ①に該当する。当初、神殿の前にいたのは私だけだった。そこでガラスに映る自身の写真を撮影したが、朧気ながらそこに写っていたのは複数の人影だった。
「白い女」が顕著なのだが、今回のテーマは私の背直後の男だ。私の後から、男性の参拝客が来たのだが、その人の姿に似た姿をしている。
白っぽいシャツに鞄をはす掛けにしている様子が似ているので、暫くの間、私は背直後の男が、この参拝客だと思っていた。
だが、撮影した順番が逆で、さらには、髪の毛の長さも違っている。
冷静に考えると、見知らぬ男が「腕の間に手を差し込んで私を掴んでいる」ことなど起きようもないのだった。
この時の私は一人で、周囲にうっすらと見える人影は存在していない。
その②は、この年の前画像よりもふた月前に撮影したものだ。
ある日帰り温泉施設の前で撮影したのだが、たまたまガラスに映った私の姿はどうにもバランスが崩れている。拡大してみると、顔が私のものではなく、背後に貼り付くように立つ男のものだった。
だが、「サングラスに少々の髭」の風貌は私と同じだ。
長らく考えさせられたが、なるほど、「私に似せている」わけだった。
この男は私にしがみつき、これから入り込もうとするところだったのだろう。
なお、この時は正面玄関では、別の「苦し気な老人の顔」が画像に残っている。
私自身を含め、どうやらこの手の状況は「誰の身にも頻繁に起きている」ようだ。
絵面的には、かなり気色悪い構図だが、こういうことへの対処方法は割合簡単だ。
幽霊の存在(自我)を成り立たせているのは感情で、その中心が「悪意」だ。
「恨み・辛み・妬み・そねみ」といった悪意を軽減すれば、幽霊が同調することが難しくなる。何かに対する執着心も度を超すと悪意と同じ効果をもたらす。過度の執着を持たぬことで寄り付かれ難くなる。
気分転換をして、自身の悪意を解くように心掛けると、幽霊の居心地が悪くなり、自ら去って行く。お祓いも祈祷も不要だが、「死者に敬意を払う」ことを忘れぬことだ。
最後に付け加えると、幽霊が寄り付く別の手段には「恐怖心を与える」というものがある。恐怖心は心を波打たせ、隙間を作る効果があるらしく、その隙間から心中に幽霊が入り込む。
ある意味、「怖れる」ことは「相手の存在を認め同調する」ことでもあるからだ。
無用に怖れ、大騒ぎし過ぎると、逆に相手(の幽霊)を引き寄せる。
幽霊は「ひとが死ぬと必ず進むステップ」のひとつで、言わば「人生の卒業生」と同じこと。敬意を払っても、怖れる必要はない。
悪縁(霊)を遠ざける簡単で有効な方法は、「執着心に囚われず、前向きに考える」ことで、祝詞やお経、呪文ではない。そういうのは神職や僧侶に任せておけ。