日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎古貨幣迷宮事件簿 「大迫銭の追究」(続)

f:id:seiichiconan:20210818103548j:plain
f:id:seiichiconan:20210818103536j:plain
f:id:seiichiconan:20210818103521j:plain
f:id:seiichiconan:20210818103507j:plain
大迫の仮称「大字」背盛

◎古貨幣迷宮事件簿 「大迫銭の追究」(続)

 繰り返しになるが、盛岡藩の当四鉄銭については、実は大迫銭についてよく分かっていないことが多い。

 何故そうなのかその理由は、「誰も調べないから」ということだ。

 だが、いざこれを始めると、奥が深いし楽しめる。当回はその一例を記すことにする。

 

 最初にお断りするが、私は分類には興味がない。足の撥ね具合がどうだ、点の有る無しがどうだこうだ、みたいなことにはまるで関心がない。興味の置きどころが鋳銭工程に注がれており、「誰が」「どこで」「どのように」作ったかということのみ考える。

 こういうのはコレクターとしては少数派のようで、大半の人が分類を志向するようだ。

 スタンスは違うが、多少、分類の方に引き寄せてみる。

 

 盛岡藩の鉄銭コレクションのテーマのひとつになり得るのは、「傍流」が鉄銭に波及したかどうかということだ。

 例えば、浄法寺山内では、「慶応より前から」藩が隠密裏に鋳銭企画を始め、何らかの銭を作っている。恐らく当四銅銭に始まり、当百錢、当四鉄銭の順で展開した。

 山内座が本格的稼働してからの銭型は、それなりに企画から実働までの流れがシステマティックなのだが、幾らかルールに外れるものがある。

 これが、かなり前から「浄法寺銭」として知られていた寛永銭の類で、「盛無背異永」や「接郭背盛」といった民鋳銭群だ。これらは銅銭なのだが、ほぼ同じ地域で鉄銭も作られているわけだから、銅銭を母型(母銭)に流用した鉄銭がある筈だ。

 こういう考え方である。

 鉄銭を検分する者にとっては、一文銭なら「密鋳の背長鉄銭」、当四銭なら「密鋳の踏潰鉄銭」等の発見は、夢のひとつと言ってよい。

 ちなみに、「接郭背盛」は鉄銭の選り出しを始め、何万枚目かに発見することが出来た。それくらいの枚数になると、鋳造時の変化のバリエーションが分かるようになるから、一瞬で「これは違う」と分かるようになる。「全体と各部分のバランスが異なっている」からそれと気づくのだが、これは数か所に集中して眺める見方とは、やはりスタンスが違う。

 

 その発見以前に、収集の先輩が「これは接郭かもしれん」と渡された品があったのだが、それが画像のJ11の山内背盛になる。

 「接郭背盛」は内郭側に「寛永通寶」の四つの文字が寄っているわけだが、確かに「通」字の右横の隙間が大きいように見える。だが、隙間が広いのはそこだけで、「寛」字の上や「寶」字の左などには違いがない。

 このため、「この品(J11)は接郭の鉄銭ではない」という見立てになる。

 

 だが、それとは別に「通」字の横の隙間が「たまたま出来たものかどうか」という関心が湧いて来る。鉄素材の性質や型形成の際に偶然生じた欠損なのか、あるいは当初の母型から存在していたのか、ということだ。

 「同じ人が書いた一枚の書」から次々に樹形図状に派生してゆく場合もあれば、「同じ人が同じように書いた複数の書」が存在する場合もある。

 そこで、似たものを探すわけだが、「通」字右に隙間のあるものは、割合見付かる。

 多くは「たまたま」のようだが、その中には、かなり似た特徴を持つものもある。 

 そのパターンのひとつが、「通字の右横に隙間が空いている」ことに加え、「寶足の踏ん張りが強い」という特徴だ。この「踏ん張りが強く」見えるのは、貝足の出る位置が広いということのようだ。

 

 鋳造工程の影響で脚の付け根が広くなったり狭くなったりすることはないから、おそらく、この書体の母銭が存在する筈だが、これに該当するような品は見付からなかった。

 雄渾な印象なので、仮に「背盛大字」と呼んでいたが、名前(分類)などどうでもよい。問題は、それが系統的に存在するかどうかということだ。

 ごく僅かな違いなのだが、実見の印象は「かなり違う」。これも「全体バランスの違い」によるものだろう。

 

 注記)記憶を頼りに記す「一発書き殴り」ですので念のため。ま、鉄銭の話は、読んでくれる人は殆どいません。