◎古貨幣迷宮事件簿 「大迫鉄銭の解法」
今月も収集品の処分を始めており、一部は既に出荷した。継続して売却に供するつもりだが、鉄銭のサンプルが出て来た。
つい手を止め見入ってしまう。鉄銭については、これを本格的に集め、研究する人がほぼ皆無なので、話題にすら出来ぬ日々を送って来たわけだが、幾らか思い出したことなどを記して置く。
地方の寛永鉄銭など、母銭を集める人はいても、通用銭に関心を持つ人は少ない。
外見が見すぼらしいから、これは致し方ない。また直に鉄銭を触ると、ヒ素が残存していたりするから、手が荒れる。
さて、盛岡藩の公的寛永銭として、最初に記されるのは、「大迫銭座」のものということになる。ただし、銭の鋳造自体は幕府の認可する前から密かに行われていたようで、浄法寺山内から試験的に製作されたと思しき玉鋼の背盛鉄銭が発見されている。
とはいえ、公許の銭座としては、大迫が最初で、次がその分座の位置付けとなる栗林ということになる。
最初の銭座なら、基本中の基本だから、さぞ簡単だろう。皆がそう思うかもしれない。
だが、この大迫銭が最も難解な銭のひとつである。
それは何故か。
その理由は、これまで書かれて来たことと実態がかなり違うからだ。
古銭書には「大迫では、銭の素材として橋野高炉より銑鉄を買い入れた」と書かれている筈だ。
だが、銭座跡から発掘された出来かけの寛永鉄銭は、高炉経由の鉄素材、すなわち銑鉄経由のものばかりではない。
見たところ、1)高炉鉄(銑鉄)、2)づく鉄(砂鉄よりたたら炉で取り出したもの)、3)砂鉄、という三つの素材を使用していたようだ。
考えるまでも無く、値が合えば、鉄素材は幾らでもあった方がよいから、多方面から買い入れたということだ。要は経済効率の原理による。
かなり前になるが、収集の先輩が大迫の銭座跡をほじくり返し、そこで枝銭やバラ銭を拾って来たというので、それを見させて貰った。
その先輩は「私が東京からわざわざ来た」というのでたいそう喜び、幾らか発掘銭を分けてくれた。
その時の品が画像のA01とB01である。
普通に見慣れた赤茶けた鉄銭とは、つくりがまるで違うことが分かると思う。
砂鉄を再熔解。精練して作った銭は、鉄の練りがよく、そのまま放置してもなかなか錆びない。地金も鏡のごとく光っている。
これはたたら炉、高炉から流れ落ちる溶鉄で鋳出した銭と比べると、比べ物になるぬ程美しい。
とりわけ、づく鉄経由で仕立てた品は、鑑賞に値するほどだ。
A01などは、手の上に載せてみると、はっきりと「これは違う」と感触がある。
その後、何万枚か鉄銭を眺めているが、ついぞ、こういう品に巡り合ったことがない。
とまあ、この先の話が本当に熱が入るところなのだが、先には進まぬことにする。
「聴く耳を持たぬ森の中で大木が倒れても、音など存在しない」からだ。
耳のないところで、どんな大きな音が響いたとしても、音など無きに等しい。
ひとつだけ興味深い点を記すと、A01とB01を見れば分かるが、どうやら初期の大迫背盛は、型がひとつだけではないようだ。
こっそりと探しても来たのだが、ついぞ見付からなかった。
鋳銭法(作り方)について、幾らか知識があれば、「同じ型の鋳造時に生じた変化ではない」ことが分かると思う。
公許の銭座では、判別が最もつきやすいのが橋野銭だが、これは母銭を作り直し、独自の型を持ったことによる。次が栗林の前期で、母銭に対し独自の研磨を加えていることによる。
他は、地金のつくりや、砂型の特徴で判別してゆく外はない。
古貨幣収集家としては、「玉鋼の鉄銭を探し出す」というテーマを持っていたのだが、これもついぞ果たせずに終わる。
ちなみに、A01でも、母銭よりはるかに少ないが、「玉鋼の鉄銭」になると、原母級の希少度になる。
かつて、一度だけ稟議銭と思しき玉鋼の背盛鉄銭が売りに出たことがあるが、下値が十万だった。末端の値段が幾らになったかは知らないが、到底及ばなかったろう。
「南部史談会誌」に「銀なのか鉄なのか地金の分からぬ背盛銭」の話が出て来るが、それがこの「玉鋼の鉄銭」のことだ。
今はいったいどこにあるのだろう。
注記)いつも通り書き殴りで、推敲や校正をしません。私には既に終了した件になります。誤記誤変換は容赦ください。
あと、古銭書を鵜呑みにすると、とんでもない間違いを犯します。必ず作り話が混じっていますので、「足で調べる」のが基本です。