日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「閉伊の鉄銭」

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閉伊三山の鉄銭 検討資料

◎古貨幣迷宮事件簿 「閉伊の鉄銭」

 閉伊三山、すなわち大橋、砂子渡、佐比内でどのような鉄銭が作られていたかということについては、殆ど分かっていない。

 新渡戸やそれを土台にした水原の著作では、出来高について記されてはいるが、具体的に「どの錢」とは記されていない。

 よって、以下は言い伝えを基にする伝聞である。

 前回も述べたが、「古銭家は鋳銭の身に着目する」という法則があり、「大橋銭座」「砂子渡銭座」「佐比内銭座」という表記がなされて来た。しかし、この三山は高炉経営が中心で、銑鉄が主な生産物であったようだ。これは橋野の状況と同じだ。

 大橋などは日本の高炉のはしりで、他地域や水戸、仙台領の高炉建設にも情報を提供しているほどだが、鋳銭はむしろ後発組で、「大迫銭座が周辺百姓の焼き討ちに遭い、焼失した後、その職人を雇い入れ」、本格的に稼働するようになった、とされる。 

 佐比内に至っては、古くは金山で、鉱山経営の実績があったところだが、既に資源が枯渇していたので、施設を利用するために高炉が建設された。

 鉄は地金として有用でそのまま売れるし、明治以降は鉄銭の交換相場が下がり、銅一文に対し、鉄は六文以下にまで至ったので、生産物としての魅力が失せて行ったことによる。

 こういう事情から、閉伊への出来高や課税額を基に「銭座の規模」を推定するのは、方法的に適切ではないと思われる。主力はあくまで銑鉄だから「高炉」であって、「銭座」ではない。

 当時の資料は専ら文言だけで、これが閉伊三山の銭と判別できるだけのものはない。

 ただ、郷土史家や古銭収集家が伝えて来た話としては、次のような特徴が指摘されている。

 ・小型薄肉の銭であること

 ・銅母銭は黒色(白銅から黄銅)

 ・変化に乏しい

 要するに、大迫系統の母銭をそのまま鋳写すことによって自山の鋳銭に充てた、ということだ。

 南部領の小型の鉄銭と言えば、「栗林座の前期」、「浄法寺山内座」のものが代表的であるが、前者は鉄材の節約を目的とするから、周縁に研磨加工が施されている。また後者は、大量鋳銭を可能にするために、大急ぎで母銭を製作したことが理由だろうと考えられる。前者は高炉鉄で、後者は砂鉄製だから、「高炉鉄で台(母銭段階)に研磨加工の無い小型の銭」を探すことで、「閉伊三山の鉄銭」へのアプローチの道が開かれる。

 

 実際には、これがなかなか見つからない。小型の銭の多くは外周に傾斜がついているか(栗林)、砂鉄製(山内)である。

 これという銅母自体も極めて希少であるため、それに合うような鉄銭を探すのも、当然、困難である。

 また「母銭は小型で白銅・黄銅」という説も、閉伊三山の母銭の総てではなく、一部かもしれぬ。

 

 掲示したのは、あくまで検討資料の範囲である。

 母銭の表面はこれより黒いことが多いが、錫による古色変化だろう。

 鉄銭については、輪幅と内郭の比率が本銭のそれに近い小型銭を例に挙げた。

 一見して小型なので山内や密鋳系(砂鉄)と判断しがちだが、実際は高炉製である。

 母子とも貧弱なのだが、これを見付けるのは容易ではない。