日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎少し軽くしなくては(597)

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令和三年九月五日撮影

◎少し軽くしなくては(597)

 今朝の夢見が悪かったことだし、とりあえず対策を講じる必要がありそうだ。

 やるべきことは多いが、無理を押して神社に参拝することにした。

 この日は日曜で、参拝客が多いから、自分自身の詳細な状態までは分からぬ筈だが、仕方なし。おまけに曇りだから、普通はほとんど画像には残らない。

 それでも放置は出来ぬから、とにかく神社かお寺に行く必要がある。

 

 曇天の下で撮影したわけだが、なるほど、最後の二枚は理不尽な構図になっていた。

 左右のガラス戸の角度が違えば、「二重映り」になるわけだが、二枚目では左右の私の間に、私の背景にある筈の建物の「屋根」が見えている。

 これは私の後ろにあるので、要は「私を通過して映っている」ということだ。

 ま、近くに「幽界の住人(幽霊)」がいる時には、光の進行方向が歪むから、「傍にいる」ことが分かる。

 一枚ガラス(左側)に「私」が二人映っていれば、そりゃ片方が私ではないということ。この理屈は、普段の発想ではなかなか分からない。

 例えば、ガラスを背にこっちを向いている人の背後の像は、必ず後頭部である筈なのに、たまに、ガラスの像もこっちを向いていたりする。こういう場合は物理的にアリエネー構図だから、「別の何か」が働いたとすぐに分かる。

 ガラスに面しているのは後頭部だから、後頭部の像が反射しなくてはならないわけだ。

 

 従前は気にも留めなかった件だが、詳細に見ると、色んな異変が見えて来る。

 ガラスへの反射映像は、ガラスを通過する光と、跳ね返って来る光が交差するので、目に見え難いものが見えやすくなるようだ。

 ちなみに、鏡には写り難い。鏡は反射光の占める部分が多く、目視と同じ状況になるためだ。

 ホラー映画や小説では、鏡だけに幽霊が映る場面が出るが、現実には「ほとんど起きない」。そもそも、幽霊は鏡を嫌うから、小さな手鏡を「魔除け」として持つ人もいる程だ。

 いつも記す通り、玄関の扉に対置するように鏡を掛けるのは「魔」が入って来ぬようにするためだ。

 

 殆どの人が見えぬだろうが、私の周りには、悪縁化した女(イリス)たちが立っている。他人なら話は別だが、自分い寄り付いている悪縁なら、はっきりと姿が見えずともそれと分かる。そうでなくては、とっくの昔に私は死んでいる。

 神社から帰ると、家でまず真っ先にお焼香をするのだが、それが終わった頃には体のあちこちの痛みが嘘のように消えている。だが、病院に行くと、また我慢するのがしんどいほど痛み出すから、次はベッド脇に水を置こうと思う。

 お焼香をして語り掛けられれば良いのだが、周りに「死に掛けの患者」が沢山いるから、そこまで出来ぬのが残念だ。 

 

 こういう話は、私にとっては現実なのだが、他人には「想像や妄想」に過ぎない。

 だが、「目の前にある危機や苦痛」を脱することが出来るのなら、理解や共感は不要だと思う。私は常時、体のどこかに腫瘍が出来ているが、大体は自然に治ってしまう。 

 腫瘍が出来ること自体は、既に「寿命が終わっている」者としては当然の事態だと思う。いずれ程なく「抵抗できぬ日」が来ると思うが、それは致し方ない。

 ひとは永遠に生き続けることが出来ぬのだ。

 

 あれだけ苦痛を感じていた右脚が、今はまったく痛みを感じない。

 散々、バーサンに寄られているので、明日は明日でまた痛みが生じると思うが、原因と帰結、対処策の効果がはっきりと分かるので、すこぶる気が楽だ。