◎少女はずっとここにいた
神社の前で撮影した写真の中で、ひとりの少女の姿が割と分かりよく見えていた。
通常、幽霊は人間の可視域の境界から少し外にいることが多いので、目視することが難しい。だが、カメラは人の目より感応域が広いので、眼に見えぬ筈のものが写ることがある。
要は見えるかどうかは純粋に波長の問題だ。見る側が訓練し、波長を合わせることで、可視域は僅かながら広がるようで、私は目視で見える範囲が広がった。
実際には、画像のあの位置には複数の霊体がいて、いずれもこっちを向いているのだが、殆どの人は検知出来ぬと思う。検知できるのは、たぶん、一体だけで、それがこの少女の姿だ。
この子は、この神社の中で幾度も見て来たが、かなり前にも見たことがある。
画像が残っているだろうと検索すると、やはり残っていた。
十五年は前の画像だが、小学生のかるた大会の時に撮影した「煙玉画像」の中に、この少女もいたようだ。
このかるた大会は、かつて、この神社の傍、三十㍍から五十㍍くらい北側に集会所(会館)があった頃の催しだった。私は子供会の役員だったので、大会に参加しこれを撮影した。
鮮明な煙玉が写ったので、こればかり着目していたが、後になり、人影も多数発見できた。かつ、その煙玉や人影が、時間の経過と共にかたちを変えたり、移動したりすることも分かった。十五年以上の時が経ち、今では薄れて来ているが、少女の痕跡は今でも確認出来る。
神社での少女が視線を向けているのは私の方で、私のことが見えていると分かる。
こちら(生きた者)側から幽霊の姿が見え難いのと同じように、幽霊の側からも人間を認識するのは難しいようで、多くは近くを通っても気付かずスルーする。
幽霊は、心の波長が似通った者だけに反応するから、これは実際のところ、「ひとを選んで現れる」のと意味は同じことだ。
少女は既に長らくこの地に留まっており、次第に悪縁(霊)化しつつあると思う。
神社で難しいなら、次は私が手を差し出してこの場所から連れ出し、お寺に連れて行こうと思う。そこでご供養を施して貰えば、自我を解放できるかもしれぬ。
出来なければ、私の背後の亡者の仲間に入る。
ちなみに、こういう感じの幽霊は、別に怖ろしいものではない。
関りを持とうとするのは、何かしらの接点を持つ者だけで、のべつまくなしに騒いだり悪さをすることはない。自己都合でそのこにいるだけ。
もちろん、常に死者に敬意を持つ姿勢が大切だ。興味本位で眺めたり、面白がってはならない。それも接点を作るきっかけのひとつで、その場合は少なからぬ応報がある。
人を小馬鹿にしたりするのと同じで、他者の恨みを買うような振る舞いを慎むこと。
追記)冒頭の二番目の画像の少女が見える人は一割だけではなく三割くらいいそう。
見えますよね?十五年前の女の子と髪の生え際がまったく同じになっている。
光の波長がほとんど人が検知出来ない長さなのだが、気を付けて見ているうちに、次第に分かるようになる。私はもはや五年以上練習しているので、割と鮮明に見えるようになった。着物や周囲の女たちまで見えるのだが、さすがにそちらはぼんやりしている。
下の画像はかるた大会の時の異変の状況。時間と共に画像が変化している。
追記2)四十人くらいの人が、この少女のことが「見える」らしい。
幽霊の画像としては分かりよい方で、こころが伝わる。
こころは「波」で、姿かたちとは関係がない。これが見えないのなら、幽霊のことはまったく検知出来ない筈で、そうなると、悪縁(霊)が近づいた時もそれと分からぬことになる。ある程度、「瞼を開き、耳を欹てる」姿勢が必要だ。