日刊早坂ノボル新聞

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◎霊界通信 「あの世への招待状」

霊界通信 「あの世への招待状」

 もし「死ぬこと」が総ての終りではなく、その先があると分かったら、その瞬間から、暮らし方・生き方が変わる。心の持ちようも変わる。

 その人によって違うが、死後には一定期間、自我だけの存在となり、感情の赴くままにあてもなく彷徨う。知能は体(脳)と共に失われるので、合理的にものを考えることが出来ぬ、感情だけの存在になる。自我を再確認するのは五感を通じてなので、死によってそれが失われると、自我は少しずつ崩壊して行く。いずれは完全に崩壊し断片的な記憶しか残らなくなり、個人(私)としての意識が消える。

 実はこの自我の捨象が成仏(解脱)だ。

 成仏はある意味では、自我の死なので、自分という意識を失いたくない者(幽霊)は、何とかして生き残りを図ろうとする。

 この場合、こだわり(執着心)が強いと、自我の求心力が保たれるので、自我が長く保たれる。

 執着心は悪意(恨み辛み妬みなど)に馴染むので、悪意を抱えた者は自我が保たれる。

 幽霊がどれもこれも怖ろしい顔つきをしているのはこのためだ。

 要は、「死」には二段階あり、最初は「肉体の死」があり、次が「自我(自意識)の死」がある。

 どの段階でも、上手に死ぬのは難しい。

 死に至る前に、十分に準備をして置く必要がある。

 

 最初に必要なことは、「死んでも終わりではない」ことを経験的に知ることだ。

 これは、知識ではなく、実体験に近いかたちで理解することになる。

 その意味では、幽霊の存在を確かめることには、何がしかの意味があると言える。

 

 幽霊を経験的に知るためには、わざわざ「心霊スポット」などに赴く必要はない。

 これは、「動物の存在を確かめる」ために、「虎の穴に入る」ことと同じ意味になる。

 自ら虎の穴に飛び込んだら、多くの者が虎に食われてしまう。

 そんなことをしなくとも、動物(幽霊の比喩)が自然に暮らすところを遠くから眺めれば事足りる。

 

 幽霊のいる世界(幽霊)は、この世と重なっているのだが、生きた人と幽霊は互いに知覚し難い存在となっている。人は五感によって外界を確認するが、幽霊は感情の波で他者を知る。

 幽霊との接点はごく僅かだが、工夫をすれば、その存在が確かめやすくなる。

 ひとつのファクターは、「光の波長」だ。

 幽霊はひとの可視域の境界線の周辺にいるので、視覚的にとらえられるのは条件が合った時だけになる。

 これを補うのは、まずはカメラで、これは捕捉可能な波長域がひとの眼よりも広いことによる。

 目視出来ぬのに、画像だけに人の姿が写ることはよくある。これはそういう理屈になる。

 さらに、ガラスは、光が当たると、背後に透過させる光と、跳ね返す光の二つに分けるが、跳ね返す方の光の波長に、幽霊を見やすくする効果のある部分があるようだ。

 ガラス窓に映る景色を撮影すると、そこにはいない筈の人影を捉える頻度が飛躍的に増える。

 (もちろん、それでも成功するのは、数十回、数百回に1度程度だ。)

 

 以上のことから、普段の生活の中で、「幽霊が集まりやすく、かつ環境条件を整えやすい場所を探せば、幽霊の姿が捕捉しやすくなる」という方法が引き出される。

 その格好の場所のひとつが、神社やお寺だ。

 神社やお寺には、毎日、数多くの人が訪れ、祈りを捧げる。この人の祈りは「念」に類するもので、強く感情を揺する。おそらく、この動きが感情の波に近い効果を生むのだろう。

 幽霊が最も多いポイントの代表例が、神社の鳥居付近、お寺の山門付近だ。

 夕暮れ以降に、鳥居や山門の前に立ち、景色を撮影すると、煙玉や煙の映る頻度が高くなる。

 さらに、神殿(御神体)に向かう道筋に添って、祈りを抱えた人が移動するためなのか、参道には煙(霊気)の流れが生じるようだ。

 日光と湿度との関係で煙のようなものが画像に残るが、これ以外にも同様の煙の流れが撮影されることがある。

 その道筋の中に、ガラス窓があれば、環境条件はいっそう整う。

  

 このことに気付いたのは、まったくの偶然だった。神殿の前に立ち、正面を撮影したら、ガラス窓には自分以外の人影が写っていた。以後、何千枚か撮影しているが、自分自身の状況とそこに見えるものがリンクしている面があるので、今はセルフチェックの手段としても活用している。

 

 さて、これからが本題だ。

 もし、死ぬことが終わりではなく、その先があることを自分の眼で確かめたかったら、神社やお寺の神殿・本堂や社務所にガラス窓があるところを探し、自身の姿を映して、それを撮影してみると良い。

 もちろん、だからと言って、すぐに結果が得られるわけではない。

 その神社・お寺によって、参拝・参詣する人の心の持ちようはかなり違うので、幽霊の集まり方もその神社・お寺によって異なる。また建物の配置や周囲の環境条件によっても、合う合わぬが生じる。

 そして、その神社・お寺の中でも、接点が生まれやすいところとそうでないところがある。

 これは繰り返し撮影を行って、微調整してゆく外はない。

 だが、いずれある段階かで、人影を捉える時が来る。

 撮影に慣れると、成功頻度が高まるし、こちらが幽霊を注視すると、その心に幽霊の方も反応するようになるので、成功頻度がより一層高まる。

 もし腹を括って、「幽霊の存在を確かめよう」と思うなら、上記を参考に自分なりに試してみると良い。

 「これは気のせいや目の錯覚ではない」という確信が得られた時、初めて「生き方を変えよう」と決心することが出来る。

 

 もちろん、リスクもある。

 人の中に善人と悪人がいるように、幽霊の中にも悪さを働こうとする者がいる。

 そして、ひとの心の中には、多くの悪意があるので、心(感情)だけの存在である幽霊は、悪意もしくは執着心を持つ者の方が多い。生きていれば肉体の殻で心を隠すことが出来るわけだが、幽霊にはそれがないので、総てがむき出しになる。

 同じ悪意を持つ者には、それと同じ波長の心を持つ幽霊が寄って来る。

 幽霊を観察していると、そういう幽霊を引き付けやすくなる側面があり、日常の中で幽霊の存在を感じる機会がどんどん増えて行く。

 私はそれなりに慣れたつもりでいるが、それでも一二年に一度くらいの割合で、性質の悪い悪縁(悪霊)に付きまとわれている。自分の方から幽霊に近づいているので、ちょっとお祓いを受けたくらいでは退けることが出来ないほど強力だ。

 このため、ある程度リスクがあることを承知して置く必要があるし、何が起きても自己責任で解決するしか方法がない。「誰も助けてはくれない」と思った方が良い。

 もちろん、姿勢も重要で、好奇心や探求心のような考えならば、近づかぬ方が良い。

 人間でも他者に弄ばれたら腹を立てるわけだが、幽霊も同じ。

 幽霊を利用して「ウケよう」「バズろう」などと言う思惑を持つと、怖ろしい「しっぺ返し」がやって来る。スマホが「お前に取り憑いたぞ」と叫ぶようになると、もはや止められなくなる。(過去に記した通り、これは実際に起きた。)

 

 ただ、そこは神社やお寺で、酷い悪意を持たぬ幽霊たちであることが多い。

 自身や家族の幸福を祈る人の来る場所だから、それに反応して集まる幽霊たちもそれほど悪い存在ではない。

 毎年、私は幾度か幽霊に抱き付かれるのだが、声が聞こえることもあり、その殆どが「助けて欲しい」と言う。

 溺れる者と同様に、自らの今の境遇から抜け出したいので、人に寄り憑く。

 こういうのは、「私には助けられぬので離れて下さい」「その代わりにあなたのためにお焼香をします」と声に出して丁寧に言うと、すんなり離れる。

 自分が抱き付かれるところを見ると、最初は「これからどんなことが起きるのか」と不安に思うが、ほとんどの場合、何も起きない。

 

<具体例> 狭山八幡のケース (2月15日撮影)

 狭山八幡は高麗神社と同様に、日常的に参拝する神社になっている。

 割とTPOを整えやすく、神社は西向き、社務所は北東向きなので、午後二時頃には「日差しを浴びた自分自身」が社務所のガラス窓に映る。

 建物自体は丘の上に建っている。駅からの行き方は平坦な道で行くルートと、崖下から階段を上って鳥居をくぐるルートの二通り。

画像1)階段を上がり鳥居下から下を見る。

 右下の丸印の場所には、雨の日に「女」が立っていることがあるので、そこだけ右側から上がること。※注:()書きはすなわち「生きた人間ではない」ということ。

画像2)手水場 コロナ以後水が止められている。

 最初の撮影ポイントは、この手水場の手前左側の位置。ここに立ち、社務所のガラス窓の自分自身を撮影する。左側の奥十数㍍には灌木があるが、左側には無い。向き直ってガラス窓を撮影する時には、左右が逆になる。

画像3社務所のガラス窓 少しクローズアップしたもの。

画像4)ガラス映像(拡大) 3を拡大したもの。

 まるで木々に取り巻かれているように見えるが、画像2で示した通り、この周りに生垣はない。そう見えるだけで、よく見ると樹木ではなく「煙」だと分かる。

画像5)手水場の前の私(拡大)

 主に周囲に流れる煙状の筋を追ったもの。日光が水蒸気に反射したものなら筋は出来ない。

 左側に灌木みたいな「もや」が見えるが、これがあるのは手水場の間の位置で、現実には存在しない。

 よく見ると、上の方に女の姿がある。中央に子どもが見え、女はこの子を連れている。

 下の歩には腕のようなものが右から左に出ている。

 私は手水場の庇の外に居るので影は掛からぬが、しかし背後に黒い影が出ている。

 日向にいるのに、ちょうど私の体を取り囲むように黒い影が出ている。空中に影は出来ぬので、現実の影ではない。解釈に困るが、幸い画像が不鮮明で、言い訳は幾らでもつく。

 私のすぐ右には半透明の男。

画像6)神殿を正面から見た構図

 神殿は階段を上がったところにあり、正面のガラス窓を撮影しても、周囲の木々の上の方、たぶん3㍍から5メートル上空の景色が映し出される。

画像7)窓ガラスを拡大 

 窓ガラスは不鮮明で、詳細が見えなかった。だが、いつも見ているので、普段と相違があれば、すぐに分かる。右下に映っているのは、斜め上を見る女の顔だと思う。

 この水準では明確な証拠にならぬので、詳細はスルーする。私は見慣れているので、容易に判断出来るが、殆どの人はガラスに映る景色を検分した経験がなく、どのように変化するかが分からない筈だ。

 

 画像5)の左側の女は、おぼろげな影だけなので、見過ごしがちだ。

 だが、煙または木の葉状の影がガラスの前にあるのか、手水場の前にあるのかなどと、理詰めで配置を当て嵌めて行くと、理屈に合わないことが分かる。その瞬間、ひとのシルエットとなって見える。まだ未検証だが、画像の煙には「深さ」があり、いずれかの深さに着目するかによって、見えるものが変わるようだ。

 さしたる悪意を持っていない筈だが、顔の表情が気色悪い。

 多くはこの程度だが、撮影を繰り返していると、次第にかなり鮮明な画像を撮影できるようになる。おどろおどろしい顔の幽霊に抱き付かれると、かなり不快なのだが、ほとんどの場合、その後何も起きない。

 もちろん、死者には敬意をもって接し、帰宅後にはご供養を施すようにしていることも影響していると思う。

 遊び半分で手を出したら必ず応報が待っているから、常に「襟を正す」ことが必要だ。

 

 神殿で祈った内容はこれだった。

 「皆さんが私の間に現れるのは、伝えたいことがあるからだと理解しました。言葉で言われぬとなかなか理解出来ないので、時間がかかると思いますが、出来得る限り対応します」

 たったこれだけで、このところ悩まされていた悪夢から解放された。