日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎幽霊の寄り付き方、対処の仕方

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◎幽霊の寄り付き方、対処の仕方

 「寄り付く」とは私流の言い方で、世間的に言う「憑依」に似た状況のことを指す。

 だが、そんなおどろおどろしい言い方をすれば、大変なことのように聞こえるし、怖ろしくも感じるから、あえて「寄り付く」という表現を使っている。

 

 さて、数日前にホラー映画の『死霊館』の4作目を観た(作年公開)。

 実話ベースだということだが、もちろん、脚色もしてある。物が「宙を乱れ飛ぶ」なんてことは起きない。ここは映画的に構成してあるわけだ。

 だが、幾つかリアリティのある表現があった。

 冒頭で青年が子どもに取りついた悪縁(霊)を自身に移すくだりがあるのだが、その悪縁が若者の前に姿を現わす、最初の兆候が「視線」だ。

 誰もいない筈なのに、「誰かが見ている」気がする。それも非常に強い視線だ。

 若者がそれに気付き、その方向に眼を向けるが、ちらっと「いるような気がする」「ほんの少し見える」だけで、すぐに姿を消す。

 世間で言う「心霊写真」の類にも、誰もいない建物の窓に人影が立ち、こっちを見ているというものがある。はっきりとは分からぬが視線を感じる。

 

 都心の駅に行けば、そこには大勢の人がいるが、各々が自身の関心に従って行動しているので、その人たちの視線を感じることは無い。だが、その群衆の中から誰か一人が自身を注視していれば、そのことに気付く者はいる。

 元々が注意深かったり、直感が働いたり、修練で周囲に気を配るようになった人なら、余計に気づきやすい。

 この時の「視線」が「あの世の者」との接点の始まりになる。

 

 こういう強い圧力(視線)が無く、単に「誰かがいるような気がする」「人影がある」という性質のものであれば、何ら心配する必要もないし対処も要らない。

 窓に誰が立っていようが、気にする必要はない。

私はこういうのを「通行霊」と呼んでいる。路上を行き交う人と同じで、互いに影響を及ぼさなぬ存在だ。 

 多少の「視線」があっても問題はない。関わらないようにすればよいだけだ。

 相手との間に線を引き、互いに立ち入らぬようにすればよい。この場合、「線を引く」とは「きちんと話す」ということだ。

 人間に対するのと同じで、知り合ったばかりなら、早いうちに「交際するつもりはない」という意思を伝えれば、面倒ごとが少なくなる。

 

 「声」が聞こえても同じだ。誰もいないところで、何かを呼び掛ける声が聞こえたら、いっそう気持ちが悪くなるだろうが、多くの場合は無視していればよい。あるいはここでも「きちんと断る」ことだ。

 私は長い間、あちこちで、「助けて」と呼び掛ける声を聞いたが、それが生きた人間でない場合は「気にする必要が無い」。それが分かってからは平気になった。平気になると逆に聞こえなくなる。(なお、幽霊ではなく人間なら無視せず状況を確かめる必要がある。)

 

 基本的に、そこに居るだけなら問題はない。

 ところが、「見る」「語り掛ける」以上に、前に踏み込んで来る者もいる。 

 これまで繰り返し記して来たが、幽霊が他の幽霊や生きた人間と関りを持とうとするのは、自我の存続を求めるためだ。「怨念を晴らす」みたいな用件ではないことの方が多い。

 死ねば自意識の基盤となる五感を失うから、自我・自意識は次第に崩壊に向かう。いずれ断片的な感情と記憶のかけらに分解され、自我は消滅してしまう。

 これを怖れ、消滅から逃れようとする者は、他の幽霊を取り込んで自我を強固にしたり、生きた人間の心に入り込んで、その人の魂との同一化を図る。そのことで自我が損なわれるのを防ごうとするのだ。相手が死んでいる者でも生きている者でも意味は同じ。

 

 さて、幽霊は眼を持たぬため、感情の揺れる波動のようなものを感じ取り、相手の存在を認識する。人間に幽霊がほとんど見えぬのと同じように、幽霊からも普段は認知し難い。

 だが、心が揺れていたり、よく似た性質を持つ者同士であれば、「そこにいる」ことを感じ取ることが出来るようだ。

 

 こういうのは、画像に断片的に現れる幽霊の姿から推測したものだ。

 私は幽霊の側から極めて認知されやすいタイプらしいが、おそらく心停止を経験していることと無縁ではないと思う。びっくりするほど寄り付かれる頻度が高い。 

 最初の画像は、昨年の二月三日、ほぼ一年前のものだ。

 ある神社の神殿前で撮影したが、人の行列の向こうにガラス窓があり、そこに私が映っている。これは常に私自身が写るように撮影しているためだ。

 拡大すると、私の背後に禿げ頭の男が立ち、私を羽交い絞めにしようとしている。

 この時の私は全身黒づくめの服装だったが、よく見ると、手が四つあり、そのうち二つは袖が白い。そもそもカメラを構える私の頭が半ば消失している。

 

 二番目の画像はその二日前のものだ。この時も同じ神社で撮影したわけだが、この時既にあの世の者たちに見つかっていたらしく、顔の周りに沢山の指が取りついている。

 ま、指ならまだ良い方で、ある部分は女の顔だと思う。

 

 こういうのは、「助かりたい」という一心で寄り付いて来る者だ。

 しかし、接点が無ければ、心に入り込むことが出来ぬから、同調することなく、気分転換を図るだけで相手の方が去って行く。

 幽霊の心は多く「負の感情」で出来ているから、寄り付かれる側もある程度同じ感情に駆られている場合のことが多い。さらに幽霊に寄り付かれると、そういう「負の感情」が増幅されるから、よくよく自身の心を見詰め直す必要がある。

 音叉と同じ理屈で、同じ周波数を持つもの同士は、音が自然に他に移って行く。

 

 ここまでは、特に大きな問題ではない。幽霊はどこにでもいるわけだが、互いに見えぬし叫びも聞こえない。

 背後に何者かが居ないことの方が少ない。大体は数体から十数体のお供を連れており、そういう存在がその時々の心境に影響を与える。

 こういう相手は、「自分はお前の存在を知っているぞ。だから俺の領域には入って来るなよ」と警告すれば、多くの場合諦めて去って行く。

 

 少し対処が必要な者が最後二つの画像だ。これもガラス映りの画像なのだが、私の右後方に、半透明の「私そっくりな者」がうっすらと見える。

 服装が同じで、サングラスを掛け、カメラを持っているわけだが、撮影しようとするポーズまで同じだ。だが、指の形が違うので、「極力、私に似せようとした」ものだと分かる。

 時々、この手の不可解な者が現れるが、長らくその意味が分からなかった。

 恐らくは、「同化」が主目的だと思われる。

 生前は肉体という外壁があり、自我自意識が保たれるので、その人間が死んだ直後に魂を吸収するのが簡便だ。そこで、生きているうちにフライング気味に相手に取りつきたい。

 そのためには、なるべくその相手に似せた方が近づきやすい。

 幽霊がそこまで考えているかは疑問だが、そういう流れだろう。それなら、死期が近づいた時に現れるというドッペルゲンガーと、「意味は違うが、やることは同じ」だ。

 

 最後の画像は、ある温泉施設の前で老人の幽霊を拾った日と同日に撮影したものだ。

 私は家人を撮影していたが、その私がたまたまガラスに映っていた。

 私の頭は半透明で、背後に私の姿に似せた男がへばりついている。

 サングラスだけ私に似せたのだろうが、おそらく関心は「老人」の方にあったと思う。

 私は老人をその場から連れ出して、神社またはお寺でご供養を施そうと思っていた。

 このため、ガラスに少し映る私は湯着を身に付けている。

 私の中にいる「老人」を吸収しようと思ったので、中途半端な姿になったわけだ。

 この「老人」は、何年か前にその地で起きた出来事と符合するところがあったから、ご供養はあまり困難ではなかった。

 きちんと送ったので、今は何ひとつ問題なし。たまに確かめに行くが、その後は煙玉ひとつ出たことがない。

 

 一般人が悪縁を祓うことで、自身の人生を良くするためには、お経も祝詞も必要が無い。

 常に「今の気持ちは果たして自分本来のこころから出ているか」どうかを問い質し、考えや振る舞いを改めることだ。

 幽霊を怖れる必要はなく、他の人間に対するのと同じように振舞えば良いだけだ。

 もちろん、何事にも例外はあるわけだが、滅多に起きない。