日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎そして観音寺へ(前記事の続き)

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令和三年十月十一日撮影。

◎そして観音寺へ(前記事の続き)

 「今日やろうと思ったことはなるべく今日のうちに」とよく言うが、普通の者にとって「出来やしないこと」の代表事例だ。

 病気を抱える前までは、私もそう。試験対策などぎりぎりまでやらない。

 だがさすがに今は違う。

 明日はたぶん生きているだろうし、明後日もまあ生きている。だがひと月後は分からない。急に具合が悪くなり、「もはやここまで」と思うことがあるためだ。

 「今日の内」はともかく、「やろう」と思ったら、数日に終えねば出来なくなってしまう。

 そこで、昨日、宿題に残した「観音寺の六地蔵の前でお焼香をすること」を実行することにした。

 平日なら条件が違い、きっと駐車場にも入れる。

 

 先に能仁寺にお参りをし、そこから観音寺に向かった。

 さすがに疲れたので、詳細は書かぬが、首尾よく六地蔵の前でお焼香が出来た。

 六地蔵は、通常、お墓の前に安置されているが、墓地の中は静寂でよい。

 「ここにベッドを置いて寝たら、きっとゆっくり眠れる」と思う。

 きちんとご供養をしている墓地では、何も異変が起きぬから、私などはゆっくり休める。

 

 死者が進むべき道は六つで、これが六道だ。

 その六つの道に入れぬ者が所謂「六道無し(ろくでなし)」なのだが、ろくでなしの最たる者が幽霊だ。

 幽霊は死してもなお、生者と死者の中間の世界である「幽界」に留まり、自我を存続させようと足掻いている。「自我を存続させる」とは、要するに現状のまま生き残ろうとすることだ。

 そして、生き残ることに執着し、悪縁(霊)化してしまう。

 ひとつ間違うと、私も悪縁の仲間入りだろうから、せめて六道の端っこに入れて欲しいものだ。