日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎ついに飯能・観音寺のうどんを食べる

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令和三年十月三十一日 飯能・観音寺にて。

ついに飯能・観音寺のうどんを食べる

 土曜から日曜の朝まで、ずっと起きて雑用をしていたが、朝になり「サンデーモーニング」が始まりそうになったので、外出することにした。

 私は「上っ面の言葉だけ」のパヨが嫌いだから、ここに出て来るA木史とかは、正直、「虫唾が走る」。

 せっかく外出するので、投票に行くことにした。

 投票所はもの凄い混雑で、これまでこんな風に込み合ったことはなかった。

 係員も同じようなことを漏らしていた。

 

 帰りしなに思い付き、そのままお寺に行くことにした。

 普段の年は、神社とお寺を合わせて年間百五十日くらい、寺社・神社をお参りしているが、今年はきっと二百日(回)を超える。それも、行かねばならぬような「切羽詰まった事態」が頻発しているということだ。

 

 このところの御贔屓は、「お不動さま」と「六地蔵」だ。お不動さまは当家の守護神だから当たり前だが、六地蔵には、専ら母の供養のために行っている。よって、ここでお焼香をし、地蔵に手を合わせると、穏やかな心持ちになる。

 次は平日に花を持参し、六地蔵に備えようと思う。

 

 ご供養が終わると、ちょうど十二時だった。

 日曜だから、駐車場の片隅にある「ざくろ庵」も営業していた。

 「よおし。今日はおっ切り込みうどんを食べよう」

 ついに食べる日が来た。ちなみに、私は蕎麦食文化圏で育ったので、うどんは苦手だ。子どもの頃にはほとんど食べたことが無い。「おっ切り込み」は西関東の「ほうとう」系に近いから、余計に苦手だ。

 「すいとん」を思い出させるからだ。

 ちなみに、父や叔父など戦前生まれの世代は、食べ物が乏しく「すいとん」を飽きるほど食べさせられたので、この系統の食べ物を極端に嫌った。その話を聞かされて育った私らは、自然にすいとんが嫌いになった。

 そもそも、私の地域では、うどんそのものをほとんど食べないのだ。

 

 久々に食べる「おっ切り込み」は、立ち食いうどんなのに、ここ数年では一番旨かった。

 鰹節で出汁を取り、シンプルな仕立てになっている。

 三百円台では、よくやれていると思う。

 

 で、結論は、「私はやっぱりおっ切り込みうどんが好きではない」ということだ。

 食べながら、「これが蕎麦だったらいいのに」「出汁は昆布×塩がもっといいのに」と考えていた。

 飯能人の名誉のために付記するが、そう思うのは「私が蕎麦の国で育ったから」であって、けして「おっ切り込み」を貶すつもりはない。 

 その土地その土地に配慮する目的で、「やたら持ち上げる」人がいるわけだが、受け取る側の状況で感想は変わる。

 以前、「ラーメン食通家」が推奨する店に入ったことがあるが、評判が影響して店内が混雑しているのに、実際のラーメンは食えたものではなかった。

 「なるほど。あの食通は謝金を貰ったわけだな」と思った。

 そういうケースでは余計に落胆するので、感想を記す時には「自分なりに思った通りに記す」のが大原則だと思う。

 だが、「三百円台で出す生うどん」なら、もちろん、充分過ぎる味だ。

 「蕎麦の方が良い」と思うのは、単に私が「蕎麦の国」で育っただけ。(これもきちんと記さねばフェアではない。)

 三十年以上、埼玉西部に住んでおり、人生で最も長く住んでいるのは埼玉なのだが、「舌」自体は小学生頃に決まっていたらしい。

 私は埼玉をこよなく愛しており、大切に思うのだが、うどんよりも蕎麦の方が好きだ。

 もちろん、うどんで育った人はまったく逆の感想を持つだろう。