日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎霊界通信 R060224 玄関の前に立つ女

◎霊界通信 R060224 玄関の前に立つ女

 土曜日の朝、娘を駅まで送ると、今度は自分が通院する番で、急いで家を出た。

 隣には新しい家が建っているが、三月の転居時期に合わせて売り出すようで、まだ売り家の看板が出ていない。

 その家の前を通りかかると、玄関の前に「女」が立っていた。

 ちょうど小鹿野で見た少女の画像のように、景色に溶け込んでいるが、しかし、浮き上がってもいる。

 「おいおい。朝からなんだよ」

 しかも、新築物件だ。

 ま、建ったばかりのビルでも幽霊は出る。開業数か月のホテルだと言うので、安心して泊ったら、夜中に声がして驚かされたことがある。端部屋なので、声が聞こえた壁の向こうは外だし、そもそも六階だか八階だった。要は空中から聞こえたということ。

 「地鎮をちゃんとやらなかったのか」

 隣家は元々工場兼住宅で、機織り工場が隣設されていた。居間の新築住宅は庭の一部に建ったが、そこはやたら湿気が多く、変な感じだった。 

 

 だが、病院で横になっている時に、「必ずしもその家の土地に関係しているとは限らない」と気が付いた。まるで誰かを待っているような風情で道の方を見ていたからだ。

 「俺が出て来るのを待っていた、というケースもアリだな」

 何せ、二十年近くの間、当家では「夜中の二時に何者かが玄関の扉を叩いた」という実績がある。

 「コツコツ」あるいは「べたべた」(手の肉月で叩く場合はこの音)。

 

 「こりゃ八幡さまに行かないと」

 そこで、病院の帰路に八幡神社に参拝することにした。

 最近は煩く騒がられぬので、それほど酷いことにはなっていないと思うが。

 

 画像自体は物凄く難易度が高く、こういう画像を大量に見ていないと分からぬと思う。

 私は何千枚経験したし、当事者でもあるので、すぐに判断がつく。当事者は、直接視線を向けられるし、声が聞こえたり、間近の気配も感じる。

 よって詳細を書くのは控えるが、結論は、「女は私を待っていた」のようだ。

 

 かつて、神社猫のトラは、五十㍍以上離れたところにいるのに、私が来たのを悟り、境内の端から走り寄って来た。最初は点の大きさだったのが、「ニャア」「ニャア」と啼きながら走り寄って来たが、一体何を見付けてそれが私だと判断したのかが分からない。

 改めて考えると、たぶん、私の周りにある煙玉か「穴」を見て、それが私だと見て取ったのだと思う。

 「穴」は周囲の景色と光の屈折率が違うところで、多く丸く見える。だから「穴」と呼ぶようになったが、この世とあの世が急有する空間(もしくは地点)なので、幽霊がよく集まる。

 時々、私の後ろには、長々と幽霊が連なるムカデ行列が形成されるが、目当てはこの「穴」なのではないか。

 すぐ後ろに林(もしくは木々)が迫っているように見えると思うが、実際には後ろは手水場で、右側の灌木の林はそれより二十㍍は後ろ。左側は駐車場で、木々があるとすれば七八十㍍以上離れている(映らない)。

 それが近くに見えるのは、要は「レンズと同じ効果を果たしている」ことではないかと思う。

 

 光(の波長)や視覚効果を研究すると、幽霊の見え方、見方が分かるようになる。

 小鹿野の右側の少女が分かりよいのだが、注視しないとそこには何もないように見てる。

 だが、誰もおらず何も置かれていないベンチが「何かに隠されている」ことを手掛かりに、隠しているものの輪郭を辿ると、初めて少女の姿が眼に入る。

 これが気のせいではないのは、「ベンチが隠されている」という事実による。

 

 ポイントが幾つかあるが、「ない筈のものがある」「あるべきものがない」「光の進行方向が歪んでいる(屈折率が変化)」が最初の着眼点だと思う。

 ま、繰り返しになるが、当事者は、さらに声が聞こえたり、気配を感じたりする。

 

 足を一晩で腐らせた「病院の女」も、まだ近くにいたから、時々、体にかかった手を振り払う必要があるようだ。

 幽霊は死の匂いを感じて寄って来る。

 幽霊にまとわりつかれると、死期が一層早まる。

 と言う傾向があるから、先んじてその手を払いのけると、寿命通りに死んで行ける。

 

 肉眼では子どもの姿が二人見えていたが、「騙し」だったようだ。

 小鹿野の女児のような子どもなら、「傍にいてもよい」と許すのが分かっているので、子どもの姿をしていれば、私が無下に払いのけることはない。五歳のようだが、実は「ごうつくババア」だったりもしそうだから、見た目で判断してはダメなのは、この世もあの世も同じだ。

 

 いつも記す通り、「霊感」「第六感」は誰にでもある。特別な能力などでは全然ない。

 幽霊の存在が信じられぬのは、間違った教育や信仰を与えられて来たため、眼が曇っていることと、見方を知らぬことによる。あとは先入観と恐怖心が邪魔をして、見えていてもそれを認めようとしないことによる。

 まずは馴染むことが肝要なので、最後に小鹿野の画像を再掲して置く。

 最初は景色に溶け込んでおり何も見えぬが、二枚目には「そこにいる」のが分かると思う。

 とりわけ、右側の女児は、確実に背景(ベンチ)の前に立っている。この子には悪意も怨念もないから、安心して観察出来る。

 これが始まりで、幾度も見ているうちに、捉え方や目の付け所が分かるようになる。

 幽界は誰もが進んで行く道にあるのだから、これまでの誤った無駄知識を捨てて、冷静、客観的に眺めると真実が見え始めると思う。

 メリットは何かは私を見れば分かる。幾度も死に掛けて来たが、その都度、自分なりの除霊浄霊で乗り越えられて来た。

 これまでやって来たことは、「死者に敬意を示すこと」と「手を掛けられたら、その手を払う。それでも離さなかったら、ご神刀で斬り捨てる」という二つのことだけだ。

 左側の画像で異常を感じる人は少ないのだが、これは「景色に溶け込んでいる」ためだ。右は同じ画像だが、光の屈折が見られる箇所を丸が込にした。これだけで少女や幼女の姿が浮かんで来る。右側の幼女は「本来何もない長椅子の上が隠されている」ことで、「気のせい」ではなく、「そこに何かがいる。ある」と分かりよい。

 「直感」または「霊感」の本質は、「耳では聞こえ難いが存在する音」を聞き、「眼ではそれと確認し難いが存在する姿」を見ていることによる。具体的にそれと認識し難いのだが、しかし、実際には聞いたり見たりしている。

 その幽霊のプロフィール的なもの、もしくは背景に関するものは、主に想像によるもので、これは「いわゆる霊能者の説明が人により千差万別」であることで分かる。要は印象を語っており、あやふやだということ。あるいは、(幽霊の)断片的な言葉の影響があるのかもしれない。

 ちなみに、この時には、過去の同じ場所で撮影した画像の中に、右側の幼女らしき姿を見付けたので、「同じ場所に行けば、また会えるかもしれぬ」と考え、この場所を訪れたものだ。すると、実際にこの子がいた。

 このことで、かつて湯船に浸っている時に「かさこそ」と何かを離す声がしたのだが、それが子のこの声だということに初めて気が付いた。