日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎何か務めがあるらしい

何か務めがあるらしい
 小鹿野の少女について、もう一度点検すると、周囲にうようよ出て来た。
 分かりよいものだけ抽出すると、私の右側にも「ちゃんちゃんこを着た女児」がいるようだ。背中を向け、こちらを振り向いている姿勢になる。
 自分自身に眼を転じると、煙の帯が胴体の周囲を取り巻いている。やはり頭が無くなったのは、室内にある光源の影響だけではなかったらしい。
 こういう状況の時には、ぞろぞろと憑いていることがほとんどなので、早速神社に参拝することにした。神社寺社にも向き不向きがあるので、それを探りつつ取り憑いた者を離して身を軽くする必要がある。

 ところがせっかく境内に入ったのに、急いで家を出て来たので、デジカメにMCを入れて来るのを忘れていた。
 状況的には絶好の撮影チャンスだったが、スマホで撮影することになった。スマホの画像ではきれいに写らない。

 これでは殆どの人が見えないと思うので、言及はひとつだけに留める。
 私の右側にはベンチがあるのだが、その上に両膝を乗せ、背もたれに両手を掛けている女児がいる。
 着物にちゃんちゃんこを羽織っており、私の方を振り返っている。これは画像の二枚目が分かりよいと思う。
 年格好は四歳から五歳の模様。
 そして、この子は六年前にもこの場所にいた子どもとまったく同じ姿をしている。
 この子の存在は、ついひと月前に気付いたばかりだ。それまでは、「女性の眼」ばかりに気を取られ、この位置は見ていなかった。
 
 神殿の前で、参拝の前後に撮影したが、やはり不鮮明だった。
 私は当事者なので、周囲に何があったかを知っているから、ほんの少しのぶれ方で「そこにいる何か」を察知できるが、このウェブ画像では無理だと思う。
 それに、これが意味を持つのは私に対してだから、理解する必要もない。
 五枚目には「人間ではない」と記した老人がいるが、これが確実に人間ではない証拠は、コイツが私の脇腹に手を伸ばしているからだ。(人間なら、私が「何しやがる」と腹を立てる状況だ。)
 おそらくは、小鹿野から私について来た、ということだ。

 神殿では「さあここで降りろ」と周囲に告げた。
 参拝後の画像にも気配があるが、幾らかは少なくなっていると思う。
 ま、これは後に画像を開いて見た時に分ったことだ。

 神殿の階段を下りる時は、偶々、参拝客の流れが途切れた時だったが、唐突に声が響いた。
 「まだ死んではならぬぞよ」
 こういう時に「誰かが傍にいてくれればよかったのに」と痛感する。いれば、その人もその声を聞いたと思う。
 いつも記す通り、こういう声の大きさは「そんな気がした」程度のものではなく、響き渡るほどの音量になっている。
 その瞬間、「確か約束があったな」と思い出した。
 何かを果たす約定を締結しており、それを果たすまでは死ぬことは出来ない。
 だが、この世に生まれると、それ以前の話は断片的で朧気な記憶しか残らない。果たしてその約束が何だったのかを考えさせられそうだ。

 だが、一つだけ確実に言える。
 それは、まだ私がもうしばらくは生き残る可能性が高くなったということだ。たぶん、簡単には死なせて貰えない。
 自分の見聞きするものが、けして妄想や世迷いごとに留まらぬことを確信したら、自然と涙が出た。
 良いオヤジジイが泣く理由も無いのに、泣きながら歩いた。

 左側の「少女」には、少なくとも五体の霊が宿っている。
 右側の女児(「お稚児さん」と呼んでいる)は、「福の神」みたいな存在で、傍にいれば苦痛や苦労が軽減される。
 自分なりに、こういう子を招き入れる努力を怠ってはならないと痛感した。
 この子の姿を確認しただけで、ここ十日ほど苛まれていた絶望感から解放された。

 さて、あなたには「お稚児さん」が見えますか?

 

追記1)先週はなかったが、ここで入浴していると、どこからともなく「からころと話す」声が聞こえる。あれはこの子の声だったのだと納得した。

 左側の少女よりも見付けやすいのだが、やはりほとんどの人が見えぬようだ。

 私も最初は何も見えぬのだが、どういう訳か必ずそこで目が止まる。不審に思いよく見ると、こちらを見る視線があった。

 「何となく気になる」のは、このせいだった。

 この視線を捉えると、姿が見えて来る。

 私と全く同じものが見える人は、この世に五人くらいのよう。これはブログの反応で分かる。公開して二分後には五人が画像を開けて見る。

 私は常にジャラジャラと幽霊を連れて歩いているのだが、かつて猫のトラが私に見ていたのは、この煙だったと思う。

 目視の場合だと、幽体は霧や煙に見えることが多い。

 写真を撮ると、初めて人影が出るが、TPOや、実体化の程度によって現れ方が異なる。

 

 つい十日前には、自我を崩壊させかねぬ状態だったが、その状態で頭に浮かんだのは、「必ず小鹿野に行かねばならぬ」という考えだった。

 今に繋がる私の原点は、「巫女さま」の出現で、その走りが小鹿野だった。 

 今回はかなり無理を押して出掛けたが、帰路にはすべて好転が始まっており、体調が著しく改善された。

 散々悩まされた悪夢も一掃され、すっかり前向きになった。

 

追記2ここはもの凄い霊場で、私などは、後ろの山に入ったら、たぶん戻っては来られない。
 説明に困るのは、他の大半の者にとっては「ごく普通の山」だという点だ。
 知見を他者に提供するのが難しい(五人を除く)。

 

追記3)ここに至り、ようやく状況が掴めた。喉元に男、背後に女の悪縁(霊)が取り憑いており、これが私を絶望させ、死の淵に追いやろうとしていた。やはり顔が消えたのは、後ろの照明のせいばかりではなく、「姿を見られたくない者がいた」ということだ。
 お稚児さんの視線の先を追っていくと、見ていたのは私の喉元だった。

 「お前らの思う通りにはならないぞ」と宣言するだけで、状況がガラッと変わる。

 

 ひとを孤立させるのも悪縁(霊)の手口のひとつなので、私が「ここにこれが」と指摘しても、世人にはなかなか見えぬ筈だ。これも納得。

 悪霊は「姿を隠す」のが常で、こういうのに見慣れた私でも、状況を把握するのに幾日かかかった。

 どんなに隠れても、視線と気配がある。また、それを教えてくれる者もいる。

 私のこのジャンルでの戦いはまだ続く。でもそれは「まだ死なない」ということとほとんど同義だ。逆に朗報なのかもしれん。

 位置関係を示すために拡大したが、そもそも半透明の存在なので、眼を離した方が認識しやすい。冒頭の画像では割と見やすいが、拡大画像では背景の物の方が眼に入ってしまうようだ。