日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎病棟日誌 悲喜交々 2/1 「再びサントワマミーな日」

病棟日誌 悲喜交々 2/1 「再びサントワマミーな日」
 宿題の「恐山観光ルート」を介護士のバーサンに、また「かまくら祭り」をユウコちゃんに渡した。
 スッキリ。

 数日来、アレルギー鼻炎で、咳や鼻水が酷い。痰が気管支に詰まって苦しい。
 医師に言っても、アレジオンが処方されるだけなので、「自宅にあるからそれを飲む」と告げた。
 眠ろうと思ったが、ひとつ置いた左の入院患者が喚いて眠れない。
 「痛いよ」「苦しいよ」
 「これを外してくれ」
 ま、治療自体がかなり苦しく、血圧が下がり、その影響で全身が苦しくなる。
 我慢するしかないのだが、この患者は九十に近いようで、既に頭の中が子どもに還っている。話し方も幼児のそれだ。
 あと一週間だろうが、毎度毎度、ひとの末期に付き合わされる。やはりDVDが必要だわ。
 このジーサン患者は自分で針を抜き、立ち上がろうとするので、看護師たちが必死で宥めていた。
 患者本人の目線から言うと、こういう状態になったら、もはや五日生きるか十日生きるかの違いしかない。
 思考能力があれば、その五日間の違いを有効に活用できるのだが、「幼児返り」したら、当人やその周りが苦しむだけだ。
 苦痛を除去する手立てを打つ処方が中心で、「治癒に向けての治療」はもう必要が無いと思う。既に全身の機能が損なわれ、多臓器不全症だ。
 頭が働くうちに、自分で「これこれこういう状態になっちゃらモルヒネだけ与えてくれ」という遺書・要望書(同意書)を書いておき、その希望通りの処方をしてやればよいと思う。
 これは安楽死とは全然違う。
 延命措置を繰り返すと、徒に苦しむ時間が増えるだけだったりする。もちろん、基本は明確な本人の意思に基づく。
 重篤な患者だと、悲観的感情から、刹那的に望む場合があるので、一定期間を置いて、幾度も確認が必要だが、医療が患者の苦痛を引き延ばすだけになるケースは結構多いので、考えるべきだと思う。
 断末魔の悲鳴を聞かされ続けると、隣の患者までおかしくなる。治療をすれば、それなりに生きられるし、健康なものと大差のない生活を送れる者が隣にいるから、そっちの患者のことも考えるべきだと思う。悲鳴を聞かされ続けると、かなり神経がやられる。
 当方は既にベテランでこういうのには慣れているし、生と死を見詰める日々を送っているので、まったく平気だが、患者の中には心まで冒される人もいると思う。

 と書いて来たが、問題点がひとつ残っている。

 それは、「現実に自分の死を確信すると、その途端に『死にたくない』と思うようになる」ことだ。

 「私は死ぬのが怖くない。いつ死んでも良い」みたいなことを言う人がいるが、それは健康な者の言うセリフだ。死を前にした当事者の思考ではない。
 
 自分の治療が終わり、検査に行く用意をし始めたら、注射痕が開いて血が噴き出た。ダラダラと床に血が流れる。静脈と動脈が繋がっているので、出方が激しい。床までタラタラと流れ落ちる。
 それで、ブッチャーが馬場さんのチョップを浴びて、脳天から噴水のように血を噴出させる場面を思い出した。
 ブッチャーの額は簡単に切れたが、あれは多くの場合、剃刀を用い自分自身でカットしていたそうだ。客に流血を見せるためにそうした。昭和はそういう時代だった。

 検査に行くと、クラクラッと眩暈がした。
 除水した後に割と出血したから、血圧が下がったらしい。
 いつも通り、「サントワマミー」を口ずさみながら病棟に戻った。

意識を失って倒れ、頭を打ち亡くなった患者もいるから、前兆を感じたらすぐに腰を下ろす必要がある。

 看護師のユキコさんに幽霊とUFOの写真を見せる筈だったが、そのユキコさんは午前で上がっていた。
 少女や稚児さんたちは「あの世」を語るのに格好の素材だ。
 幽霊なのに怖くない存在で「死後の世界」の説明にはちょうどよい。
 当方は世間でいう「心霊」みたいな表現を排除しているが、常に「恐怖」が下敷きになっているためだ。
 恐怖心を取り去り、客観視しないと、あの世は永久に理解出来ない。
 ま、割と分かりよい存在なのに、「少女」も「お稚児さん」もその存在を認識出来ぬ人の方が多いらしい。
 当方は、見えない・聞こえない人の感覚が分からない。
 ここでも、視線を背けさせるのは恐怖心だと思う。無意識に否定し、あの世の者の前から逃げ出そうとする。

 

 三脚を持って、また今週も小鹿野に行こうかと思案している。

 もしかすると、UFOの動画が撮れるかもしれん。これぞ一挙両得か(w)。