◎2018年に経験した心霊現象 (1-6月編)
今、私は既に晩年に入っている。余生は残り僅か。
あの世が近くなったことを実感する毎日を送っているが、こんな「今」に繋がる起点は2018(平成31/令和元)だと思う。
そこで、改めてこの年から起きて来たことを振り返り、事態を見直そうと思う。
なお、私は基本的に「心霊現象」という言葉を使わぬのだが、言い回しが楽なので今回は便宜的に使用する。
◆2015/01/13 小鹿野町の温泉旅館
この旅館はいわゆるスポットのひとつ。これより数年前から時々訪れていたのだが、その都度、「カサコソ」と人の囁く声が聞こえた。廊下でも風呂場でも、どこからか話し声が聞こえる。小声なのでなかなかそれとは気付かぬのだが、家人も同じことを言っていたので、空耳ではなさそうだ。
だが、こういうのは「ひとを選んで起きる」ので、他言はせずに置いた。聞こえぬ者には聞こえぬので、説明が難しいし、人によっては異常に恐怖心を抱く者もいる。
なお旅館名を記さぬのは、「殆どの人にとって何も問題のない普通の旅館施設だから」ということ。
変な評判が立っては営業の邪魔になる。温泉自体は良い泉質なので、年に数度は訪れていた。
泊まってみればより事情が分かった筈だが、これまでは日帰りのみでまだ泊ったことはない。
この日、入り口で何気なく撮影すると、ガラス窓の右上の方に「女性の眼」が映った。
過去にも、同じ場所で家人を撮影した時に、背景に女性らしき姿が映ったことがあるが、不鮮明だった。これが「眼」だと分かるのは、それまでに幾度か経験していたからで、参考図に宿谷の滝で川面に映った目の例を挙げた。理由は分からぬが、右眼のことが殆どだ。
なお、後で分かったことだが、宿谷の滝では、一時、「穴(この世とあの世との交流点)」が出来ていたようで、この地でも話し声が聞こえた。周囲数百㍍に人がいないのに、どこからか話し声が聞こえた。
この地で撮影した画像には、煙玉が出ているものが沢山あるが、煙玉自体は自然現象で、光や湿度、気圧などの関係でTPOが合えば出る。たまにそれ以外に「何らかの外的要因」で生じることもあるが、霊的現象に共なって出ることもある。
参考図では、滝の近くに煙玉が沢山出ているが、主に湿気の影響だろうと思う(「蒸気玉」)。
だが、この後一年くらい後には、写真には何も写らなくなった。
滝の入り口から六七十㍍入った左手に「穴」があった筈だが、「穴」は数か月から一二年くらいで消失するようで、この周辺での異変が突然消えた。
なおそこに「穴」があると分かったのは、「犬が吠えたから」だ。滝に向かう山道で犬を散歩させている人がいたのだが、その地点の前で二頭の犬が立ち止まり、一点を見詰めて吠え続けた。まるで誰か不審者がそこにいるかのような吠え方で、数分の間、頑としてその場所を動かなかった。
犬たちの視線から、その方角の先に「何かがある」または「何者かがいる」のは明らかだった。
参考図の「眼」はこの時期に撮影したものだ。こういう写真は時間の経過と共に消失していくのだが、これもかなり薄くなった。だが、女性の眼であることは明らかで、かつ生きている人の持つ温かみをまったく感じない。だが一方で、喜怒哀楽ではない、何かしらの意思や意図の所在を感じる。
これを見ていたので、旅館の窓の眼が「たまたまそう見えた」ものではないと分かった。
ちなみに、右下のベンチ横には、お稚児さんのような小さい女児が立っている。
これは今回初めて気付いた。
たぶん、いつもこの館内で「カサコソ」と話し掛けて来たのは、この子だろうと思う。
悪意のない子どもなので、気付いてやればよかった。近日中にこの旅館を訪れ、もしまだいれば連れて帰ろうと思う。こういう子は大切にしてご供養を施すか、あるいは傍に置けば「福の神」の働きをする。これまで気付かずに来たことを申し訳なく思う。
◆2015/01/21 高麗神社
これまで「K神社」や「トラの神社」としてきたのが高麗神社だ。情報の精度を高めるために今後は名称を記すことにした。前例の宿谷の滝と同様に、一時ほど神殿前での異変を検知しなくなったので、名称を開示しても迷惑は掛からぬと思う。
私が「死後の世界」の研究に乗り出すことになったのは、実はこの日が起点となる。
初詣の季節が終わり、参拝客が減った頃に、猫のトラに会うために神社に行き、何気なく神殿の前で撮影した。ガラス窓を撮影するのは、これが初回だった。
周囲に人はいなかったが、どういうわけか写真には他人の姿が写っている。正確には「ガラス窓に映っていた」だが、前後の画像を調べてみても、生きた人間は見当たらなかった。
この事態を受け入れられるようになるまで、数か月かかったが、結論は「そこにはいない筈の人影が写っていた」に落着した。
これで考えが激変した。「気の迷い」や「妄想」に留まらず、「眼には見えぬ者」すなわち世間的には「幽霊」が存在しており、それは「写真にも写る」ということだ。
思念だけでなく物理的にも存在しているということで、それなら宗教の語る説明とは別に、科学的な検証が可能だということになる。
ガラス窓には、青いジャケット(ジーンズ?)の人影が二つ見えるが、右側は二枚ガラスへの二重映りである。本体は左側の眼鏡を掛けた女性だ。ところが、左右同じものが写る筈なのに、右側の人影には頭が無い。また左右は分断される筈なのに、右側の人物は二枚に跨って立っている。
背後には、かなり遠くの生け垣が写っているようだが、うねうねと人の顔に見えたりもする。
何とも説明のつかぬ事態だが、はっきり言えるのは、左側に「眼鏡の女性がいる」ということだけだ。
この人は「生身の人間」ではない。
◆2015/02/13 高麗神社
夕方になり、どうしてもトラに会いたくなり、高麗神社に参拝した。
駐車場に車を停めると、既にそこにトラが待っていたので、記念に「自撮り画像にトラの姿が入るように」撮影した。すると、トラの周りに煙玉が出ていた。
私もトラと同じで、被写体になると、周囲に煙玉が良く写る。このため、他の人が変に思ったり、嫌うだろうと思い、なるべく写真には入らぬようにしていた。
トラは五十㍍先にいても私を見付け駆け寄って来たが、たぶん、私ではなくこの煙玉を目印にしていたのではないかと思う。
オレンジ色なので、この日のトラは体調があまり良くなかったと思う。
◆2015/03/22 高麗神社
夕方、神殿の前で撮影すると、私の背後に着物姿の女性が写った。背後から私の右肩に手を乗せている。さすがに異常な事態なので、最初は「神殿の中の参拝客」ではないかと疑ったが、内部では祈祷(お祓い)中で、全員がご神体の方を向いている。
また女性の着る白い着物は、巫女着には見えず、むしろ死に装束に近い。
よく確かめると、「小鹿野町の旅館で、背景に写り込んだ着物の女性」と同じ女性に見える。
当初は薄気味悪く思ったのだが、「それなら既に数年経っているから、悪意はない」と思った。
実際、この時期には何も変事が起きていない。「憑依」とか「祟り」とは無縁の存在だった。
◆2015/04/01 高麗神社
これも神殿の窓ガラス画像。
カメラを構える私の右側に暗がりがあるが、よくよく見ると、そこにも「カメラを構えた者」がいる。このケースはこの後度々起きたが、要は「近くにいる者の姿を真似ている者」のようだ。
これは推定だが、ある人物の「姿を真似る」のは、「その相手に近づくため」ではないかと思う。
いずれ具体的なケースを紹介するが、真後ろに立った者が、「服装も真似ている」場合がある。
近づくごとに、近づく対象に近い姿を取っているということの目的は、「その相手に化ける」「その相手の中に入り込む」「その相手と同化する」といった意図によるのではないかと思われる。
なお両手は割と鮮明に見え、顔の位置も分かる。よく見ると「ゾンビ顔」になっている。
◆2015/04/08 小鹿野町
いつもの温泉旅館に行った時のもの。
この画像では不鮮明だが、廊下の場面から煙玉が浮いていた。
今回気付いたが、白っぽい人影が立っている。ウェブ画像では一層分かり難いと思うが、女だと思う。
次の画像で判明するが、ずっと私の後ろを歩いていたのではないかと思われる。
なお、この着物の女性は拡大するより、遠景で眺めて方がよく見える。
ここでこれが三月二十二日の「着物の女」と同じ人影だということに気付く。
◆2015/04/12 高麗神社
実際にはちょうどこれくらいの不鮮明な画像が多い。今回は大半を不採用としたが、これだけを事例として開示する。
私の頭の後ろには、少なくとも女が二体。左側はシルエットだけの人影が立っている。
後で詳細に説明するが、こういった「影だけの人」を「黒いひと」と呼んでいる。
◆2015/04/21 宿谷の滝 (赤外線撮影)
ガラス窓は「透過させる光」と「跳ね返す光」とに分け、その「跳ね返した方に幽霊が写りやすい」ことが分かっている。さらに肉眼では見えぬのに、写真には写るのは、カメラのレンズの「捕捉域が肉眼より広い」からだということも判明した。要は「幽霊は人間の可視域の限界線に跨って存在している」ということで、それが幽霊が観たり見えなかったりする要因となる。
このため、赤外線カメラを使用して撮影してみることにした。
宿谷の滝を上の方から撮影したが、木々の間に女性のようなものが垣間見られる。
当初は樹木の幹かと思ったが、幹の前に立っているように見える。ただこれは定かではない。
◆2015/04/26 高麗神社(赤外線撮影)
赤外線カメラで撮影し他画像は、普通にモノクロ写真と同じように見える。
だが、肉眼で見た時、通常カメラで撮影した時とはまったく別のものが写ることがある。
この時、神殿の前にいたのは私一人だったが、左側には大きな女性が参拝をする姿が写っている。
これが実際にいた人でないのは、サイズ(背丈)によりガラス窓のすぐ前にいた筈なのに、そこには誰も経っていなかったことで分かる。
私はガラス戸の合わせ目に立っており、一見すると二重映りで左右に分かれているように見えるが、左右が重なって一枚の中に入っている箇所があるので、一人の私が二重に写ったのではない。「二人いた」と言う意味になる。よく見ると、周囲には幾つもの顔に囲まれていることが分かる。
私は女を背負った状態で、その女は両腕を私の肩から前に回している。
◆2015/04/28 鬼首神社
この頃から次第に「あの世の見方」に慣れてきたようで、たまたま家人と訪れた鬼首神社で、ガラス窓の前に立つと直感が閃いた。
一枚目は通常写真だが、これの画像自体では肉眼で判別できる者は見えぬのだが、わたしには左側に人影が立っているように見える。そして私の真後ろにも。
急ぎ赤外線カメラで撮影したが、家人の左側には「着物を着た女」がいると思う。
たぶん、同じように見える人は殆どいないと思う。
この時点で何百枚もガラス映像を見ているので、微妙な光と影の違いに気付くようになって来た。
◆2015/05/06 高麗神社
長い間、ここに何が写っているのかが分からなかった。
改めて眺めると、まず「首のない着物姿」は分かりよい、山吹柄の着物だと思うが、頭付近には別の女たちの顔が重なっているので、この着物の女の頭が消されているということだ。
右隅にはこれも着物を着た女性の横向きの姿が写っているが、むしろこの方が分かりよい。肩から上は見えるが、下半身は殆ど透明な状態だ。
ま、はっきりしない面もあり、あくまで参考事例だとは思う。
◆2015/05/18 御堂観音
御堂観音は有数の霊場のひとつ。北上川の源流泉がこの境内にある「ゆはずの泉」だ。
これまで幾度も記したが、かつて筋膜腫に苦しんでいた折に、たまたま神社の前の国道を通ったら、「ここで泉の水を飲んで行けば治るよ」と女児の声で言われた。
腹痛が著しかったので、その声に従って神社に参拝し、泉の水を飲んだ。
ペットボトルに水を汲んで帰り、実家でお茶を淹れて飲んだが、その晩には酷い下痢をした。
するとその後、著しく病状が回復し、脾臓と胆嚢の筋膜種が数か月で完治した。
幾度も参拝したので、その時だったか青の後だったかは忘れたが、境内で撮影した時に、藪の中に女性の顔が出ていた。
後で分かったが、この女性は矢巾の人で、この神社に参拝した際に急病で亡くなったようだ。
なお、私に「この神社に寄って泉の水を飲むように」と伝えたのは、五歳くらいの女児の声だった。
今回初めて発見したが、これはおそらく一月十三日の小鹿野町のガラス窓に写っていた女児ではないかと思う。これより前から、私の傍にいたのだ。
それなら温泉旅館で「カサコソ」と話し掛けていたのは、この子が一生懸命に何かを伝えようとしていたのではなかったか。
後述するが、わたしには「あの世の仲間」がいるのだが、これは「白い着物姿の女性(「白衣の巫女」)」と猫のトラであることは疑いない。それとどうやらもう一人、この女児もそうらしい。
いやはやこの頃から既に五年が経とうとしている。
これまで気付かずにいて申し訳なかったと思う。
ちなみに、この日は参拝後に階段を下っていると、何となく左手が気になったので通常+赤外線で撮影した。快晴で雲一つなかったが、画像には蛇のようにくねる白煙が写っていた。
ひとつの信仰が自分に合うかどうかは、「波長が合うかどうか」と言うことに尽きる。
光は波の性質を持つが、ひとの感情も同じように「波」で、波長が合わぬと共感しない。これは波長の同じ音叉が離れた所でも共鳴するのと同じ理屈だ。
私のケースは誰にでもっ通じるわけではないので、念のため。万能薬が無いのと同じように、ただ神社に参拝したからと言って、病気が治るわけではない。
◆2015/06/02 東秩父
ポピー畑を見物するために家人と東秩父に行った。
高台の上から家人を撮影すると、家人のすぐ後ろを「大きな女」が通り過ぎようとしていた。
頭のサイズから見て、180㌢はありそうだ。
別の画像での人のサイズを見れば、これが生きた人間ではないことが分かる。
そもそも下半身が無い。
◆2015/06/10 高麗神社
一見すると、ガラス戸の継ぎ目左右に二重映りしているように見える。
だが、私と後ろの人影が重なっている部分が多く、境目で分かれていない。
後ろの人影の服装はかなり私に寄せているが、帽子を被っているようにも見える。
そもそもマスクの上にひとつ眼が開いている。
よく見ると、後ろの人影の背後にも人影が連なっている。
これは、日を追って鮮明に見えるようになる。
なお、私の頭の部分には私ではない女の顔が出ていると思う。
同じ日の帰りに駐車場に戻ると、何となく一角が気になったので撮影した。
これまで正体が分からなかったが、半透明の着物姿の女性が立っていたようだ。
柄がある着物なので、これまでとは別の高齢女性だ。
◆2015/06/17 花巻
父を連れ、花巻の温泉旅館に泊った。
まだ建って間もない(開業数か月)の筈だが、館内では煙玉が写った。
煙玉自体は気候や気圧の条件(TPO)によってどこでも派生する。
霊的現象と常に関係があるわけではなく、また時にはそれから派生的に生じることもある。
私は「建ってひと月」のビジネスホテルに泊まったことがあるが、七階の部屋の浴室で顔を洗っていると、「助けて」と言う声が壁から聞こえたことがある。かなり大きな声なので驚いたが、廊下に出て調べてみると、浴室の外側は空中だった。人は立てない。
◆2015/06/21 高麗神社
ウェブ画像では分かり難いと思うが、私の左に黒い人影が二つ立っている。
純粋に影だけなので、この手のを「黒いひと」と呼んでいる。
右側のは幾らか顔が見えるので「黒いひと」とは言えぬが、感情が見えず、ただ影だけの存在だ。
参考例を二つ掲示するが、冬の夜には、よく道端に立っている。
肉眼でも見えることがあるので、注意深く観察していると発見できるかもしれぬ。
私は三日ほど前に、電柱の陰に立っているのを見たばかり。
◆2015/06/23 名栗湖
名栗湖(有馬ダム)も、数年前まで「穴」があったようで、霊的現象が頻発した。
(今では殆ど起きなくなったので、名称を記せるようになった。)
湖のほとりに佇むと、やはりここでも遠くからひとの話し声が聞こえる。
当初は対岸の人の声かと思っていたが、百㍍以上は離れている。ヒソヒソ声が届く距離ではないので不審に思ったが、家人にも同じように聞こえる。
ある一角がとりわけ気色が悪かったのだが、後でその謎が分かった。
その場所はボートを付ける船着き場のひとつで、ある時、警察の舟艇がそこで何かを運ぶのを目撃した。状況的に「湖に投身した人」だったと思う。
ひとが死に向かう地には幽霊が集まるので、その地点に寄り集まったらしい。
「穴」は対岸の山の中で、望遠レンズでその山林の中を見ると、沢山の人影がぐるぐると山の一地点を回っていた。数十人はいたが、皆が青白い顔で無表情だった。
その後崖崩れがあり、湖岸の道路が閉鎖されたが、再開されると、従前のような異変が見られなくなっていた。煙玉が乱れ飛ぶこともなければ、人影が立つこともない。
この写真を撮影したのはレストハウスの前で、「助けて」「助けて」と言う声が聞こえた。
不思議に思い、窓ガラスを撮影すると、石垣が女性の顔に化けていた。
黒いコールタールの水の中で、女性二人が浮かんだり沈んだりしている。
そんな様子だった。
他にも青いパーカの女性など、そこにはいない筈の人影が写っているが、この前後一年間は常に異変が起きた。気色が悪いので、週に二三度お焼香をしに行った。
その後、声が聞こえなくなり、人影も煙玉も写らなくなったが、ここは私が一心にご供養を施したせいだと思うようにしている。
もちろん、あの世はそんなに甘くない。 (後半に続く。)
追記)今回、「どうしても過去を振り返らねばならない」と思い、逐一見直すことにしたが、このため「女児」を発見することが出来た。ようやく総てのことがこの女児を蝶番にして繋がって行く。
「いつもこの子が助言していてくれた」ことを知り、申し訳ない気持ちになっている。