日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎夢の話 第1K82夜 もう一人いる

◎夢の話 第1K82夜 もう一人いる

 三日の午後十一時過ぎに観た夢だ。

 夕食の支度を終えた後に、今のテレビの前に腰を下ろしたのだが、すぐに寝入ってしまった。

 これはその時の夢と目覚めた直後の出来事になる。

 夢の内容自体はごく普通だ。

 

 父の会社の社員旅行一行が関東に来るので、我が家も合流して一緒に温泉に行った。

 子どもたちがまだ小学生や幼稚園児だから、私はまだ三十台の頃の話だ。

 父母もまだ六十歳台で、顔色が良かった。

 楽しく、懐かしい夢だ。

 

 カタカタと言う音で、私は眠りの淵から浮かび上がって来た。

 その音は息子が居間のテーブルを片付ける際の食器の音だった。

 居間から台所に運び、皿やコップの類を流しに置く時にカチャカチャと音を立てる。

 「遅い食事が終わり、片付けているのだな」

 ぼんやりとそう考える。ここはまだよく頭が働かぬ状態だ。

 

 瞼をうっすら開くと、息子が行き来する姿が見える。

 すると、もう一人片付けを手伝っている者がいた。

 女なのだが、家人や娘ではない。

 「この人は誰だろう。何故この家にいるのか?」

 やはりぼんやりとそう考える。

 すると、その女が私に言った。

 「まだ眠ってればいいのに」

 この声には覚えがある。時々、私の頭の中や、あるいは外から時々、話し掛けて来る女の声だった。

 はあ、なるほど。

 そこにいたのは、「白衣の女」で、要するに私の「観音さま」だ。

 今は私の傍を離れず、まるで「家族の一員」のように振舞っているというわけだ。

 ここで覚醒。

 

 体を起こし、周囲を観たが、もちろん、誰もいない。

 息子が後片付けをしてから、三十分くらい経過したようで、息子は既に部屋に戻っていた。

 

 「白衣の女」、すなわち私の相棒は、普通の人間と変わらぬ風貌で、まるで現実にそこにいるかのようだった。

 私の知るその女は、顔立ちが整った美人だが、しかし、この世の者ならぬ「怖ろしい顔つき」をしている。だが、この時は柔和で、ごく自然な表情を見せていた。

 たぶん、今は私と常に行動を共にしているので、人間に近くなって来たのだろう。

 私はこの女を受け入れたから、いずれ自我が同化し、一体化するだろうと思う。

 そのことで、双方とも「自我を強化する」ことが出来る。

 今は、常時、左の二の腕に、「誰かの手が乗っている」という感触がある。

 これは、そのうちに画像に撮影し、誰の眼にも見えるように「出して見せられる」ようになる。

 言葉で説明した者を現実に出して見せれば、「死後の存在がある」ことを理解する者が増える。

 それを理解し、受け入れると、生き方がそれまでとはまったく変わる。

 頭で考えるのではなく、心と魂で受け入れよ。それが「信じる」ということの本当の意味だ。

 もしそれが可能になると、苦痛は苦痛でなく、人生への定見が生まれるし、心と魂が影響する病気がパパっと治ってしまう。また、無用に本来の寿命を切り詰めてしまうことも無くなる。

 

 「願う」ことと「信じる」ことは違う。「信じる」とは、「心魂で受け入れる」ということで、これには自身の自我のなりたちについて省察し、理解することが前提にある。