日刊早坂ノボル新聞

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◎扉を叩く音(続) 令和五年二月二日の記録

◎扉を叩く音(続) 令和五年二月二日の記録

 「深夜、玄関の扉を叩く音が響く」話の続き。

 一日夜半の十二時過ぎに、玄関がバタンバタンと開閉し、息子のような声で「※※※※だよ」と外から中に呼びかける声が響いた。正確な位置は、玄関の外なのか、ベランダからなのかがよく分からない。

 要は「外から」ということ。

 

 家人と娘はめいめい自分たちの部屋で寝ており、息子は居間にいる。

 そもそもその時間帯に外に出る用事は無い。

 

 「身近な者を装う」というのも、幽霊が人に近づく時の方法のひとつで、こういうのは総て空耳だ。

 空耳には「本人が思い込む」ケースと、「誰かが化ける」ケースの二つがある。

 私は雑踏の中で、その場にはいない家人の声を頻繁に訊く。これはたぶん前者。

 周囲に誰もいないところで、呼びかけられることもあるが、これは後者。その時、名前を呼ばれたら、充分に警戒する必要がある。「誰彼構わず」ではなく、照準が決まっているという意味だからだ。

 

 こういうのには、「耳を貸さない」という一手しかない。

 何事かと思って、外に出てしまうと、それで相手の手に乗ってしまう。

 外に出て確かめ、「何だ。気のせいか」と家の中に引き返す時に、当人と一緒に中に入る。

 原則、扉を開け招き入れなければ中には入れぬので、幽霊は色んな手段を講じて、扉を開けさせる。

 その次に開けさせるのは「心の扉」で、これは眠っており理性が働かず無防備な状態の時に、同じように働きかけ、自分から開けさせる。当人が共感するような夢を観させ、感情移入を共有することで扉が開く。

 

 少し前までは、その声は二階の廊下とか、娘の部屋からだった。

 やはり、相棒がいるせいで、圧力がかかり、勝手に出入りできぬようになっているということだと思う。先方にとってすれば、せっかく自我の牙城を打ち崩し、近くまで来たのに、最初からやり直し。

 

 

 この手のは十年以上もの間に幾度となく経験したから、さすがに何とも思わぬようになった。

 声が響くと同時に、「オメー。息子じゃねえだろ。甘く見るな」と返事をした。

 本来は相手をしてはならないのだが、心がまったく動じなくなったので平気になった。

 一番ダメな対応は、「怖れる」ことで、心が振り子のように揺れると隙間が出来やすい。

 次は「気付かず、招き入れてしまう」こと。そういうヤツがいると意識するだけで、まったく状況が変わる。

 両方とも「隙を見せる」という点では同じことだ。

 

 常に気を許さずに居れば、それが単なる「気のせい」でも、あるいは本物の「寄り付き」でも、どちらにも対処出来ることになる。こういうのは、信じるかどうかではなく論理思考で考え、リスクが低く、効率の良い対策を選んだ結果だ。

 生きている者が有利に進められるのは、「合理的にものを考えられる」という点だ。

 幽霊は感情だけの存在だから、それが出来ない。