日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎扉を叩く音(続)

◎扉を叩く音(続)

 「毎年、秋から冬にかけて、深夜、玄関の扉を叩く音が聞こえる」話の続きです。

 

 令和二年十一月十六日 午後七時の記録。

 入浴から上がった家人が、ダンナ(私)のところに来て言った。

 「オトーサン。誰か玄関のドアノブをガチャガチャと音を立てて引っ張る人がいるよ!!」

 ダンナは普通に答えた。

 「そりゃ、別に何でもないよ。九分九厘が幽霊だもの。でもま、一応、鍵を確かめるんだな。強盗だったということも無いわけではない」

 家人はすぐに玄関に向かい、鍵をかけ直した。

 

 さすがに後で苦笑した。

 「幽霊だから何でもない」は、普通の家の会話ではないからだ。

 だが、十数年前から昨年辺りまでは、これが聞こえるのが「秋冬の到来」を意味していた。そろそろ神無月だし、幽霊が騒がしくなる季節だろう。

 昨年からは「出入り自由」となり、ドアを叩かなくとも入って来られるようになった筈だが、また少し事情が変わったらしい。

 ま、この場合のノックは「私を助けて下さい」という意味だから、私が外に居る時に見付けて、あとをついて来たのだろう。

 「あの世」の者は、家の中にいる者が招き入れぬと、自分ではなかなか入っては来られない。

 

 そう言えば、玄関脇には観音さまが飾ってある。そこで足が止まったか。

 この「観音さま」は実体がなく、土と粘土で出来ている像だ。

 だが、人々が信じることで、「念」の力が生まれる。

 護符の類は、単なる紙や木、土に過ぎぬのだが、信じる者には「念」の影響が生じる。

 お寺や神社で、ただお守りを買って来るだけでは、やはり「ただの紙と木」だ。

 もし自身を守って欲しいのなら、「信じる」ことが必要だ。

 

 「信仰」は、生きている人が、より良く生きるための「杖」だ。

 そこで語られる世界観は、実体・実態とは違うことが多い。

 だが、結果的に「衆生の救済に結び付けば、それでよい」という考え方もある。

 安息に生きられ、死後の安寧を得られるのであれば、どういう信仰であろうと人のためになる。

 だが、信仰は他者を排斥するために利用されたりもする。

 そのことは、信仰本来のもつ意味とはかけ離れているのだが、本人たちは気付かない。

 「元々は苦しい人生を行く抜くための『杖』だった」ことを、「知らぬ」のと「承知した上で信じる」のとでは、まったく異なる。

 

 当家では、不動明王を守護神として、その他に観音さまを祀っている。

 ひとの姿をした仏神が存在しないことを承知してはいるが、しかし、不動明王は「衆生救済」、観音さまは「慈悲」の心の象徴だ。

 そのことをわきまえて居れば、「手を合わせ、幸福と安寧を願う」ことには、十分な意味があると思う。

 

 スタンスが替わり、扉を叩き「助けて下さい」と願う者には、ある程度応じることにしている。もちろん、相手がしがみついたりせぬことが条件だ。

 とりあえず、明日にでもご供養を施すことにした。

 

 しかし、私ではなく、家人に聞こえるように扉を叩いたとは。

 その時、私と息子は居間にいたが、ノックの音は聞こえなかった。

 これはテレビが点いていたことでその音に消されたのだろう。

 深夜に響く時には、息子もその同じ音を聞く。

 

 共に暮らしているので、家人も次第に感化されて来たのだろうか。

 ま、旅館に泊まった時に、誰も居ない筈の隣室から物音が聞こえたりするが、同室の者が同じ音を聞く。