日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎幽霊が可視化するケース、しないケース

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幽霊が可視化するケース

◎幽霊が可視化するケース、しないケース

 幽界の霊(幽霊)はかなり昔から「存在する」と思われているわけだが、絵画に描かれる姿はいかにも朧気であることが多い。日本画では多く「脚先がない」者として描かれた。

 それもその筈で、「現実に朧気で、半透明」であることが多いようだ。

 その理由を突き止めたのは、この一二年のことだが、結局のところ、幽霊が「赤外線域にまたがって存在しているから」ということだ。

 赤外線は人間の目には見えないが、「幽霊がブランコのように境界線の内外を行ったり来たりしている」、「光が交錯することで、波長に変化が生じる」ことで見えるようになる。

 人間の可視域はひとによって様々であるから、これが「赤外線側に広い」人であれば、目視出来る場合もある。

 またカメラは人間よりも赤外線域の感応度が高いので、目には見えぬがカメラには写るという事態が生じる。

 

 私の経験では、映画の『プレデター』に出て来る宇宙人のように、周囲の景色に紛れているように見えるのだが、光の角度が急に変わったりすると、シルエットが浮かんで見える。

 先日、外出時に車の後ろを振り返ると、そこにそういうシルエットが座っていたが、晴天下で、外から入る光の角度が急に変わった瞬間にそれが見えた。

 

 そうなると、「幽霊が見える」要因には、「環境的要因」と「(観察者の)主体要因」の双方が関与することになる。

 私には「幽霊の側から見られやすい」という付加的要因があるようで、向こうの方から寄り集まって来る。(これは推測だが、私が煙玉をより多く発散させているためではないかと思う。)時々、人影が私の体に手を掛けている写真が撮れる。

 

 なお、ホラー映画や小説では、鏡の中に幽霊や悪霊・悪魔が現れるストーリーがよくあるが、実際には「無い」と言ってよい。もしあるとすれば、何らかの別の要素が加わっている。鏡に幽霊が映らない理由は、「光の角度」と「幽霊がそれを嫌う」というふたつがあるようだ。

 鏡に抵抗を感じるのは、「自分の姿が見える」からで、これは生きている者も死んだ者も変わらない。

 逆に「幽霊が嫌う」という側面から、「お守り」として使用できるほどだ。

 コンパクトより若干小さいサイズの鏡を携帯し、「何となくざわざわする」時などは周囲にかざすと良い。

 

 脱線したが、要点は下記の通り。

◆幽霊の可視化要因◆

「環境的要因」 :1)「光の強さ」、「光の波長」、「交差角度」、「湿度」など

         2)そこに幽霊がいること 

「主体的要因」 : 観察する側の「赤外線域への検知度」

 ちなみに、霊能力はまったく関係なし。そもそもそんなものは存在しないから。

 

 さらに加えれば、幽霊が「ガラスの継ぎ目で二重映りする」ところを見ると、「物理的に存在している」ことは疑いがない。人には知覚し難い何らかの物質が関わっているとみられる。

 

 掲示の画像は、目視する時に似た見え方をしているものだ。

 光の角度により、一瞬だけ(0.2秒程度)、ひとの姿がシルエットで見える。

 赤外線域の像は、ほとんどの人には見えぬため説明に困るが、この感じのは見える人が若干増える。

 下に記すが、あくまで「目で見て、第六感で想像した」ものであるから、そこには判断間違いもあれば、錯覚もある。観察のための「よりよい環境」を整えることで、実体へのアプローチが可能になって行くと思う。

 

 世間には「そこにはいない筈の人影」を見たり、「声」を聴いている人が幾らかいると思うが、多くの場合、そのことを隠して暮らしている。

 母は夜の二時になると、決まって枕元に現れる人影に苦しんでいたが、生涯、そのことを他人に語らなかった。

 自分自身の精神状態を疑う人も多い。

 だが、そういう人はもう安心してよい。「気が変になったわけではない」と必ず解明して見せる。私はそういう人の味方だ。

 

 かたや、「自分には霊能力がある」「神や心霊、守護霊の言葉を聞く」と思う人には、「それはただの妄想だ」という言葉を贈る。

 あなたは自意識過剰の妄想家であるだけ。他人と違う力が欲しいからそう信じる。

 現実に目の当たりにしている者は、ひたすら苦痛でしかない。

 もし、それが「能力」であるならば、「のべつまくなしに心霊写真が撮れる」はずだ。また、人心を導くような「あの世のシステム」があるなら、「人間社会はもう少しましなものになっている」筈だ。だが現実はそうではない。

 (追記:私が置かれた状態を末尾画像に添付した。外出するだけでこうなる。) 

 幽界にあるのは、「むき出しの自我・自意識」だ。それがどんなものかは「ネット上のコメント」や「ツイート」を見ればよい。大半が悪意で出来ている。

 

 ひとは眼で見て耳で聞く。五感で感じる以外には、「脳内で想像する」ことしか出来ない。よって、第六感は主に「想像や妄想」で形成される。

 「霊感」と「念」は同じく「心」や「感情」を基礎として成り立っているので、混同されがちだが、実はまったく別の次元の話だ。(この件は追って記す。) 

 

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令和元年十月二日撮影。私の後ろに続く死者の隊列と「白い女」

  もはや「お馴染み」となった、この「白い女」の画像を拡大してみたら、腕がさらに多かった。わやわやと掴みに来ていたらしい。

 要点は「きちんと見極めて対処すれば、何ひとつ起きない」ということ。

 「あの世」に関するこれまでの見解は、つくづく「ぜんぶウソッパチ」だと思う。

 「守護霊」や「指導霊」だと。まっこと笑わせてくれる。

 それなら出して見せてくれ。

 

 なお、特定の人物・団体を指しているわけではないので念のため。

 対抗心のような気配を感じ取ると、背後の悪霊(これは実在)が出動し、悪さを働くようになる。