日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎二十七日の補足

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令和三年一月二十七日撮影

◎二十七日の補足

 幽霊は可視域境界線の内外に跨って存在しているから、目視出来たとしても、朧気であることが多い。紫外線域については調べたことがないので何とも言えぬが、今のところ赤外線域側にいることは確実だ。

 この場合、

 1)可視域は人によって異なる(個人差がある)。

 2)カメラは人間よりも赤外線域が広い。

 という条件があるから、目視出来ない人影が「写真には写る」という事態が生じる。

 要するに、「カメラは人間の視力を補正してくれる」ということになる。

 なお、人が見える範囲が幾らか広いことは、近視や遠視と同じ状況であることから、「人間には特別な霊能力はない」という帰結になる。近視遠視を「能力」とは呼ばない。

 以上のことが「あの世観察」の前提となる。

 

 さて、昨日の「男児」については、「人影(幽霊)」としては極めて鮮明な方である。だが、これが「見えない」人も割といるらしい。

 周囲に確認すると、半分くらいは「判別がつかない」ようだ。

 これは主に経験によるもので、観察するにはそれなりやり方(見方)がある。

 イ)その場の環境で、合理的でない写り方をしているかどうか。

   (明暗やその場には無い光などが加わる)。

 ロ)空間(景色)の歪み

 ハ)光線(日光やフラッシュ光)が不自然に曲がる。等、

 以前、このことを「光の当たった先にある物体ではなく、その手前の空気を見る」と表現した。  

 

 画像の男児は、顔の周辺が光っている。直射日光が当たっておらず、輻射日光が後ろから来ているので、顔が光ることは無い。

 よく見ると、この周囲には半透明の煙玉があるようで、あるで水晶球のよう。

 それに気づくと、左側に女性の頭があることに気付く。

 ほぼ首までしかなく、顔は少し分離している模様だ。

 これについては、私しか判別できないかもしれない。私はここで同じものを幾度か見たことがあるから、それと推察できる。

 (逆に過去の経験が足かせとなり、見間違いをすることも多いわけだが。)

 

 次の画像は一部が著しく歪められている。

 下部に建物の屋根が見えるから、その上にあるか、手前にある木々だが、該当する林はここには無い。一体どこの景色なのか。

 その妙に曲がりくねった木々の中に「黒い人影」がうっすらと見える。

 ここで千枚以上、写真を撮影しているから、すぐに分かるが、これも見慣れた人影になる。これはカメラを構えて、神殿を撮影する者のシルエットで、具体的には私の姿として見て来たものだ。

 私は左側で撮影しているから、勿論、私ではない。

 

 これまでの経験では、幽霊は「その場にいる人」や「直前までそこにいた人」の姿に寄せることがある。

 恐らくは、極力、警戒されずに相手に近づくためだろうと思う。

 普通は「同化」が狙いの筈だが、その場にいる者で対象となりそうな者はほぼいない。強いて言えば、それは私だろうと思う。

 今の私は生命力がかなり落ちているし、そもそも私に似せている。

 

 幽霊が「何故現れるのか」「目的、あるいは欲求は何か」を考えれば、対処策が自然に導き出される。

 その意味では、三枚目の「女の頭」は幾らか薄ら寒い。

 意図がよく分からないからだが、概ね、自己の存在を示すのが目的だろうと思われる。普通ははっきりと「助けてください」と言うのだが、自我・自意識が薄れて来ると、次第に存在感が希薄になって行く。

 胴体が見えぬのもその表れだろうか。

 

追記)先ほど、もう一度見直したが、「女」には頭が二つ以上ある(複数が合体したもの)。こちらを見ているから、私の存在に気付いていたようだ。

 これからお線香を上げてご供養をする。