日刊早坂ノボル新聞

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◎「三年前の出来事」(さらに続き2)

令和元年八月十八日撮影画像と参考図

◎「三年前の出来事」(さらに続き2)

 さらに前回の続きとなる。

 撮影当時はよく分からなかったことのひとつが、私のすぐ近くにある「煙」だ。

 遠くに見える木々の葉のような印象を受けるのだが、この位置、この角度からは遠景は入らない。私は神殿の前では、撮影ポイントを6か所固定し、常にそのいずれかに立ち撮影しているが、過去六年間でこれが三千枚以上に及ぶ。よって、配置を見ただけで、どこから撮影したか、被写体として何が入るアングルなのかを承知している。

 「紛れ」や「気のせい」を排除するために視座を固定化したということで、この一枚の画像を見て即座に想像したものと違うとすれば、それは「ただの勝手な思い込み」だ。

 この位置は神殿に向かい中央やや右側に立ちガラスを撮影した時の「内門の前後」だから、煙の柱が立っているのは「階段の上」か「空中」になる。

 

 さて、この煙は何か。

 私の見るところでは、「幽界の霧の中から実体化しようとする女の姿」だろうと思う。

 これまで繰り返し記して来たとおり、「あの世(ここでは幽界)」はこの世と重なる世界だ。そしてその本質は「霧またはガス状の物質」になる。人の眼には見えぬ波長の光しか反射させぬので、人はその存在を直視することが出来ない。だが、カメラを使用して、さらにはTPOが適合したりした時に、「幽界の霧」や「幽霊(幽界の霊」が画像に残る。さらに可視域に近づいた場合には、肉眼でも幾らか見える。

 幽霊が姿を現す時の兆候は下記の通り。

1)「幽界の霧」(不可視)が可視化して、この世の「霧」に近くなる。

2)最初にその霧の中に「眼」(自我・自意識)が開く。

3)徐々に部分的だが人影が現れる。顔や上半身、または手や足など。

4)全身が人の姿になる。

 生身の人間が自他の違いを意識するのは、専ら肉体(五感)を通じてのことだ。死ぬと肉体が無くなるので、自他の区別が曖昧になる。複数の記憶や感情が混然となっている状態から、何かしらの強い感情を核に「かつての人格」にまとまる。

 外見の印象ではそんな風に見える。

 ま、こういうのは検証が必要だから、現段階で結論付けることは出来ぬし、その必要もない。知見をひとつずつ積み重ねて行けばよい。

 

 さて、私の右横にある煙の柱はガラス戸の継ぎ目に立っているから、半身が途切れている。実際は右のガラスと同じ厚さの半身が左側にもあるのだろう。

 伺い見るところでは、髪の毛が胸の下まであり、かつその髪は巻き髪のように見える。

 これによく似た女の人影は、この場所で幾度か見たことがある。

 画像をチェックすれば出て来るとは思うが、何せ三千枚の画像だ。

 とりあえず、同じ画像の右端に出ていた女の後ろ姿によく似ている。同じ画像のニ箇所に同じ女が出ることなど、生身の人間では有り得ぬのだが、幽霊の場合は時々ある。

 顔と体、あるいは体の一部が別の場所に出ることがある。

 

 あるいは、昨年の二月末に撮影した「黒い女」にも似ている。この「女」は黒い影だけの存在だが、何時どんな時に画像に現れても全身が真っ黒な影だけだ。

 「何がしたいのか」「何を求めているのか」がまったく分からない。