



◎徐々に姿を現す
母の夢を観たので、目覚めた後、すぐに八幡神社に参拝した。
たまたま二時過ぎで、日光は天空にあるので、ちょうど良い。
光が目に入り、前がよく見えぬのだが、私の二の腕に感触があったので、相棒(「白衣の巫女」)が傍にいると分かった。
駐車場で開いてみると、あの「二の腕の感触」の直後の画像には、右側に着物を着た女性が立っていた。
徐々に感じたものと、かたちに現れるものが一致し始めている。
ま、まだほとんどの人の目には「ただの光」に見えると思うが、ネットで私を見る「同類五人」の他にも、幾人かが見え始めていると思う。
それは福音のひとつだ。
私を見ると分かりよいと思うが、私は何年も前から「程なく死ぬ人」だ。お迎えの一形態である「黒いひと」「黒玉」が私の周りには、繰り返し現れている。
それでも死なぬのは、あの世の仲間がいて、バックアップしてくれている、ということ。
(ただし、これは「守護霊」などと言うものではない。あの世にそういう存在はない。どう生きるかは当人次第で、無条件に手を出して救ってくれる者はこの世にもあの世にもいない。仲間は「つくりあげるもの」だ。)
この巫女の影響で、周囲から幽霊がいっそう集まるようになっている。神社の周囲には浮かばれぬ者が沢山いるから、走り寄って来る感がある。
例によって、私の姿に似せ、同化しようとする者もいるが、すぐに巫女が吸収したようだ。
かつて、何千人かの信徒を率いていたから、すがりつく者の扱いを心得ているということ。
この巫女が戻って来たおかげで、あの世に関する不安や怖れが微塵も無くなった。いずれこの巫女がより多くの人が見えるように姿を現し、人々を導くと思う。
ちなみに、私はこの巫女の顔も見えるが、さすが修験道に生きた者なので、表情が冷徹だ。ひと言で言えば、怖い。
愛とか平和などと言う胡散臭いことは語らぬところが、「本物だ」と思う。見えぬ者、見ようとしない者を「対象外」とする扱いは、やはり私と似ている。
目視の時には、二の腕の感触と、光の中の人影が鮮明だったので、ものすごく興奮した。
追記)寄り憑いた者の数が多過ぎて、相棒の手が回らなかったようで、丸一日横になっていた。
私の顔が消えて、背後の柱や、複数の女の顔に替わっている。かなりキモいのだが、それが「自分ではない」と認識出来れば、「分離できる」ということでもある。
私がことさら特別な状況にあるのではなく、普通の人にも、多かれ少なかれ、日常的に寄り憑きが起きている。
だが、殆どの人は影響を受けていることに気付かない。
あの世との関りは、ごく日常的なもので、特別な時、特別な場所(いわゆるスポット)だけで起きるのではない。