日刊早坂ノボル新聞

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◎霊界通信 「追加観察 ガラス窓の中の世界」他

◎霊界通信 「追加観察 ガラス窓の中の世界」他

 気になることがあり、先日の飯能から日高の記録について再観察することにした。

1)ガラス窓の中の世界

 神社や寺社では、ガラス窓に自分の姿を映し、それを撮影している。

 ガラスは、光を透過する波長光と反射する反射光に分ける効果があり、反射する光のは、あの世(幽霊)を可視化しやすくする。

 景色にも影響があり、目視するものとは別の配置になることがある。 

 最初の三枚は、高麗神社の神殿前から境内を撮影したものだ。

 構造物の配置がこれで分かる。

 最後の画像は、神殿の窓ガラスに映る境内の景色を撮影したもので、ガラスに反射した景色なので左右が逆転する。直射した画像とは、配置が左右逆になる。

 遠近の関係が崩れているし、掲示板に至っては、階段の脇にあるものだ。どうやっても神殿の上からは見えぬものが画像には見えている。

 光は必ず直進する筈だが、光が「曲線の軌跡を辿っている」のでなくては有り得ぬ光景だ。陰に隠れているものが映っている。

 

2)左肩を刺されていた

 帰宅してから、やたら左肩が痛むので、もう一度画像を点検した。

 すると神殿の前で撮影した最初の画像に、左の肩の後ろに「黒い手」が出ていた。

 尖ったものを私の肩に突き立てているような構図になっている。

 周囲の景色が著しく歪んでいるから、亡者(幽霊)に取り囲まれていることが見て取れる。煙玉が沢山出ており、これが光を歪めているわけだが、前後の景色には、この黒い手と錯覚しそうなものはない。

 かたや、右肩には光が当たっているが、盛り上がって見えるので日光だけではないようだ。視覚的には不鮮明だが、当人(私)的には、こちらは右手のような感触がある。

 もちろん、今のところははっきりとしたことは言えない。

 右後ろに「巫女さまが立っている」のは確実だが、この女性は左手を私の肩口に当て、右手を脇腹付近に当てていると思う。

 以降はあくまで解釈に過ぎぬだが、この時の私はかなり不味い状況にあったようだ。

 亡者の群れには、悪意を抱えた者が沢山おり、その中には危害を加えようとする者もいる。そういう者の一人が一撃を加えようとしたので、巫女さまが現れたのではないか。

 刺されたのが心臓でなくて良かった。今は左肩が酷く痛むが、命に別状はない。

 いつもあの世(幽界)を注視しているので、その世界の住人には快く思わぬ者もいる。これは生きている者の感情と同じだ。さしたる理由なく他者を嫌うことはよくある。とにかく癪に触るということ。

 なお生きている人も、私のことがどうにも好きになれぬ者が六七割はいると思うが(大勢だ)、これは背後にいる亡者たちの影響だと思う。

 これは仕方ないし、遠ざかっていてくれた方が助かる。こちらから見れば、ひとりの人と向き合うのは、背後にいる者とも付き合わねばならないことで、余計に疲れる。既に「死にかけ」なんだし、この世の仲間や友だちは必要なし。その上、私に関われば「障り」が降って来るかもしれん。どうか近寄るな。話題にもするな。禁足地ならぬ禁足人でよろしく。

 

 あの世は「気」(霊気)で出来ている。普段は意識(感情)で、霧のような煙のような状態だ。だが、精神だけの存在ではなく、物的基盤がある。このため、状況により実体化して人の姿をとることもある。

 よりよく例えられるのは「ゼロ(0)」で、何ひとつ関われぬ存在だ。足しても引いても変化がないし、掛けたり割ったりはそもそも出来ない。

 だが「実際に存在している」し、扱いを間違えると「総てが無に帰する」。

 「霊」とはすなわち「零」のことを指す。