日刊早坂ノボル新聞

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◎霊界通信 「幽霊の視覚的効果」

◎霊界通信 「幽霊の視覚的効果」

 題名で内容が分かるように、あの世関連の話は冒頭に「霊界通信」と付記することにした。

1)カメラで捉える霊煙

 さて、前回の「防護服の男」の続きになる。

 神殿前に自分以外に誰もいない状況で撮影したら、ガラス窓に「いない筈の男」が映っていた。というのが、この時に起きた事態だった。

 遠景で撮影した画像を見ると、私の左前に煙が立っている。

 日光が空気中の湿気に反射した時にも同じような煙が写り、実際にこの画像全体にそれが出ている。ただ、この箇所はごく部分的で、煙が直立しているように見える。

 これがガラス窓には男の姿として映っている。

 逆算すると、

・その位置に男(の幽霊)が立っていた。

・肉眼では、その男は見えない。

・カメラで撮影すると、直接撮影した箇所では、煙に見える。

・ガラス窓に映った煙は、ひとの姿になっている。

 という流れになる。

 この場合、

・カメラは人間の可視域より広い波長の光を捉えることが出来る。

・ガラスは、背後に透過する光(波長)と、反射して返す光(波長)を分ける

 という環境条件の改変が加わることで起きた、と見なすことが出来る。

 このことは、幽界(あの世)を解明しようとする者には、まさに福音だ。

 幽霊を「実証的に確かめることが出来る」ということの手掛かりになるからだ。

 

 私がもっとも感動したのは、男が「二枚戸の左右に二重映りしている」ことだった。

 これは、幽霊はスピリチュアルな領域にいるのではなく、「物理的な存在」であることを証明する事象のひとつだ。

 この方向で研究を進めると、宗教や霊能者の語る「絵空事」の部分を排除できると思う。

 

2)人体の消失

 巷で言う「心霊写真」に時々あるが、あるべき筈の人体が写真に写らぬことがある。

 多くは「たまたま隠れていた」「そう見えた」ものだが、説明のつかぬものもある。

 自称霊能者なら、さらにそれに「亡くなったお父さんが」みたいな因果を語る(やめときゃいいのに)。

 こういうのは、「何か理由があり見えなかった」ことまでが事実だ。

 時々、例として挙げるこの画像は、八幡神社の定位置で撮影したものだが、周囲に人がいないのに、私のすぐ脇に事務服の女性が立っていた。

 「そんな気がする」程度ではなく割合鮮明で、誰でもこれが人だと分かる。

 普段、半透明か一部だけ(目など)のことが多いので、逆にこれだけはっきりしていると、初めは自分を疑ってしまう。

 「周囲に人がいたのに、見落としてしまっていたのでは」などだ。

 だが、よく見ると、この女性は「隣に立っている」のではなく、私に抱き付いているようで、手が私の体に触れている。見ず知らずのオヤジにいきなり抱き付く女性は滅多にいないし、そうれあれば私が気付く。

 面白いのは、私の体の左側が一部消失していることだ。

 女性が寄り添っているのではなく、私と重なっており、その部分が消えている。

 我々が見ている景色は、ものを見ているのではなく光を見ているわけだが、光は波の性質を持つ。波は「同じ波長で、プラスマイナスが逆転する波を交差させると、きれいに消えてしまう」特徴を持つ。(何という用語だか失念。)

 要するに、私が反射する光と、幽霊が持つそれとが真逆なので、波が消される効果を生んだのではないかと思われる。

 アクリル板(の一部)には、後ろに立つと「ひとの姿が消えてしまう」ものがあるようだが、理屈はそれと同じだ。人体の返す波長光を透過しないので姿が消失してしまう。

  こういうのは、実験によって確かめられる筈で、その先には「幽霊を視覚化するための波長域」を特定する道が開かれる。

 

 死後の世界を解明するには、神は必要なく、因果や恐怖を語る必要もない。

 スピリチュアルな説明は、霊界の実態を知るためには、むしろ無用の物だと言える。