日刊早坂ノボル新聞

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◎小柄な老人  (一年前の振り返り)

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令和三年五月二日撮影

◎小柄な老人  (一年前の振り返り)

 画像は昨年の五月二日のものだ。

 この日は日曜だったが、ひとつ確かめたいことがあり神社に参拝した。

 この時の用件は「空間線量の測定」だ。

 これまでの経験では、いわゆる「パワースポット」で電磁波や線量が変動したことがあったので、実際に確かめてみようと思ったのだ。

 経緯は以下の通りだ。

 東北地方を訪れる時には、いつも線量計を点けっ放しにして運転する習慣になっているのだが、あるトンネルを通り過ぎる時に、突然、線量が上がり始め、最高で1.30μSv/hに達した。トンネルの半ばを過ぎたところで、「粉塵などにより運ばれた被爆物質が固まっていた」とは考え難い。

 焼却灰を運んでも線量は上がるのだが、1.30μSv/hは上がり過ぎだ。この場合はせいぜい0.50μSv/hで、これは短期間で消える。また、線量の高い地点はわずか二十㍍かそこらの短い距離だった。

 そのことが気になったので、後でそのトンネルのことを調べると、そこは「心霊スポット」として有名なところだった。

 中央から南寄りの、ちょうど線量計が跳ね上がった地点辺りで、車のドライバーが人影を見るのだという。

 そこで、いわゆる「(パワー&心霊)スポット」に立ち寄る機会を得た時には、念のため、線量を計測することにしているのだ。

 

 まず最初の画像はその線量測定結果だ。

 鳥居から神殿に向かうに従って、幾らかは線量が上がっているが、特別に異常を思わせるものではない。

 ごく普通の自然、人工環境で0.3~0.7μSv/hくらいまでなら当たり前だし、大規模施設の配電盤や量販店の電飾の近くであれば0.12μSv/hくらいにはなる。

 同じ神社で、別の日に0.7μSv/hを計測したことがあるが、これも「別にフツー」の範囲だ。

 

 納得したので、そこで帰ろうと思ったが、何気なく足を止め、失礼ながら参拝客の背後から幾枚かを撮影させて貰った。日曜なので参拝客が割と多く、切れ目なく人が訪れては各々の願いを祈って行く。

 帰宅してから画像を開くと、一枚の画像で目が留まった。

 若い女性二人が神殿前で手を合わせているものだ。

 この左側の女性のすぐ前に小さい人が立っている。帽子を被った老人のよう。

 奉納箱の高さと変わらぬほどの背丈だから、一㍍十㌢内外身長だろう。世間に小柄な人は割といるわけだが、それでも百四十㌢くらいはあるのが普通だ。

 違和感があるのは、女性との間合いだ。女性の左すぐ前で、ほとんど接触しそうな立ち位置になっている。

 最初に浮かんだのは、「この老人が果たしてあの時あの場所にいたのか」という疑問だ。

 この身長であれば、少しでも見掛ければ、やはり記憶に残る。

 前後の画像を確かめてみたが、休日ということもあり、普段より若めの客が多かった。

 「小柄な老人」どころか、お年寄り自体がほとんどいなかった。

 

 それでも、見落としということは必ずあるし、身長百十㌢程度の人間もこの世にいないわけではない。

 私はバンコクの街角で、道路に座り布施を求める「身長五十センチの僧侶」を実際に眼にしたことがある。小人症の体型ではなく、頭と胴体・脚のバランスが少年のそれに近い整った姿だった。

 僧侶は自身の前に大きな丼鉢を置き、手を合わせて座っていたのだが、周囲は黒山の人だかりで、鉢には布施の小銭がてんこ盛りになっていた。

 

 「ま、存在に気付かなかったという可能性は否定できんな」

 そう思っていたが、今回たまたまこの画像を開き、「あの老人はやはり存在していなかった」ことを発見した。

 ガラスに女性の姿が映っている。左肩のすぐ前に「小さい老人」がいるので、ガラスの女性の左前に老人の姿が入る筈なのだが、そこにひとの姿はない。

 カメラの角度により、位置がずれることもあるわけだが、それでも女性のコートの端にはかかっていなければならぬのだ。

 

 あの世の者は、肉眼では見えなくとも、ガラスに映ることがある。これはもはや幾らでも実証例がある。

 一方、肉眼であの世の者が見える場合は、ガラスの方には映らない。

 これは、肉眼で直接捉える光の波長と、ガラスに反射した後の光の波長に変化が生じることによる。

 波長そのものが変化するというよりも、一定の長さの波長の光が取捨選択されるということだろう。

 

 「小さい老人」は、この世の者ではないと思われるが、一体何のためにこの世に姿を現わすのかがまるで分からない。

 もっとも、人の姿をしているのはまだ良い方で、猫に近い顔をした子どもの姿をしていることもあるから始末に負えぬ。